銀行で「トヨタは危ない」とうわさが立ち…
日産、いすゞが争議に入った1949年秋のこと、喜一郎は毎日、金策に走っていた。会社に出勤せずに、朝から経理の担当を連れて市中の銀行を回る日々だった。
「うちのトラックは売れています。年末の資金を貸してください」
頼んで歩くのが日課だ。
しかし、銀行を回れば回るほど、「トヨタはよほど危ないのではないか」という風評が立ち、喜一郎が頭を下げても、なかなか「はい」と言ってくれる金融機関は現れなかった。
この時、大阪銀行(のちの住友銀行。現・三井住友銀行)の支店長が「機屋に貸す金はあっても鍛冶屋に貸す金はない」と放言したという説がある。豊田自動織機に貸す金はあるけれど、トヨタ自動車工業には貸せないという意味だ。
しかし、この言葉は信頼のできる資料に載っているものではない。果たして、一銀行マンがそれほど尊大な言葉を他人に言い放つことができるのか。ただ、この通りの言葉ではないにせよ、大阪銀行はトヨタとの取引を打ち切ってはいる。
いよいよ貸してくれるところがなくなり、2億円の年末資金がなければ、会社はつぶれてしまうという瀬戸際に追い込まれた。喜一郎が懸命に「親会社は儲かっている」と言っても、銀行は耳を貸してはくれない。
日銀名古屋支店に駆け込む
その時、動いたのは販売担当常務の神谷正太郎だった。神谷は旧知の日本銀行名古屋支店の支店長、高梨壮夫の部屋に駆け込む。そして、トヨタの背後には無数の中小企業が存在していると訴えた。
「トヨタがつぶれると中京地区の部品会社など300社以上が連鎖倒産します。中京地区の経済を助けるために日銀が協調融資の融資団を作ってください」
だが、高梨は一度は断った。
「日銀は民間企業に金を貸すことはできませんし、民間企業に金を貸せと命令することもできません」
「金は貸さなくていいんです。命令しなくともいい。集めて声をかけてくれればそれでいいんです」
神谷は詭弁ともとれる言葉で何度も日銀を訪ねては、高梨に頼み込んだ。神谷に動かされた高梨は自分自身で調べてみると、トヨタのトラックが売れていること、もし、トヨタがつぶれたら、神谷が言うように中京地区の経済がガタガタになることがわかった。
「見過ごしてはおけないな」
高梨は日銀本店に相談してみた。しかし、総裁、一万田尚登は自動車の国際分業論を唱える人間である。
「乗用車はアメリカにまかせればいい」と事態に乗り出そうとしなかった。
普通の金融マンならそこであきらめてしまうところだけれど、高梨は中京地区の経済が破たんするのを手をこまねいていることはできなかった。