古代中国でも高身長であることはステータスだった
また文献には、とくに高身長の者の記録が残っており、だいたい八尺(約184cm)以上の者は「姿貌甚偉」「容貌絶異」「容貌矜厳」などとよばれ、巨躯とされた。
『三国志』を例にとると、劉備が七尺五寸であるほかは、だいたい八尺以上の者のみが高身長の者として特記されている。「八尺の体躯があっても病気にならぬ者はない(*19)」という慣用句があり、身長八尺は健康で丈夫なことのあかしであった。
一方、六尺(138cm)未満は労役に就かずともよく、むしろ一種の身体障害者とみなされていた。どれほど高位高官にのぼり、栄華をきわめようとも、戦国時代の孟嘗君のように、身長が低いとバカにされた。
ゆえに、たとえば高身長の一家に生まれた馮勤は、兄弟のなかで自分だけ身長七尺未満で、子孫が自分に似るのを恐れ、高身長の妻を娶った(*20)。かれは身長が代々似ることに気づいていたふしがある。
なお、当時の人びとの視力や聴力についてはよくわからない。ただ、視力にすぐれた離朱や、聴力にすぐれた師曠の伝説があるので、視力や聴力に個人差のあることは知られていたようである。
役所の官吏はイケメンであることが採用条件にふくまれていた
ここで役所に近づいてみよう。前漢の首都長安であれば、役所群のそばに未央宮があり、皇帝はそこで臣下と会議を重ねた。後漢時代には首都洛陽に朝堂という会議室があり、皇帝はそこで会議を開いた(*21)。
漢初には、臣下は必要におうじて昇殿したが、そののち、昇殿は5日に1回となり、皇帝に拝謁するには事前予約が必要となった(*22)。高位の臣下といえども、おいそれと皇帝の尊顔を仰ぐことはできなくなった。庶民にとってはなおさら無縁である。
ここで、役所にあつまっている官吏の顔ぶれをみておこう。驚くべきことに、いわゆる顔面偏差値がかなり高い。それもそのはずで、漢代ではイケメンであることが官吏の採用条件にふくまれることがあった(*23)。
かの孔子でさえ、外見で人を判断したことがあり、のちに後悔しているほどであるから(*24)、イケメンが得なのは古今変わらぬ真理といえよう。なかには、身体に障害があり口唇裂の男が君主に評価されたとの伝説や、醜い男性が外交官に任じられたとの説話もあるが(*25)、それらは現実的にほとんどありえないことだからこそ伝説化・説話化して、史書に特記されているのである。