虐待する継父の元に引き渡された女児

その最たる例が2018年3月、東京・目黒区で5歳女児が両親からすさまじい虐待を受けて亡くなった事件である。

「もうおねがいゆるしてゆるしてください おねがいします ほんとうにもうおなじことしません ゆるして」

亡くなる前、そんな反省文を書かされていたこの女児は香川県で暮らしていた時から、母の再婚相手である継父から「しつけ」の名目で暴力を受けていた。しかもその事実は、児童相談所もしっかりと把握していた。

深夜に裸足で外を歩いているところを保護された時、女児は「パパにたたかれた」と説明した。医療センターで唇、両膝、腹部などいたるところに傷やアザが確認された時も、女児は「パパ、ママいらん」と泣いた。海外なら即座に保護され、継父は刑務所送りになるケースだが、児童相談所は女児を、加害者である継父と、それを傍観した母親に引き渡して、いずれも書類送検のみで不起訴となっている。

香川で「不問」にされた継父の虐待は、東京へ引っ越してからさらにエスカレートしていく。ダイエットを強要し、時に冷水をぶっかけ、先ほどのような反省文を書かせて、食事を与えないなど心身ともに追いつめたが、東京の児相も香川と似たような対応だった。

「子供の人権」意識が欠けている日本

やがて女児は寝たきりになり、トイレに行くこともできずオムツをつけた。発見された遺体は痩せこけて、臓器は健康な5歳児と比べて5分の1まで萎縮、死の直前に嘔吐した形跡もあった。彼女に本当に必要だったのは、「家庭」などではなく、「子どもの人権」を何よりも尊重して、命を守るために親と引き離してくれる「子ども行政」だったのである。

では、なぜ日本の児相は、DVやストーカー被害を受けて命からがらシェルターに逃げ込んできた女性を、加害男性に差し出すような対応をしてしまうのかというと、先ほど述べたように、「子どもは親の所有物」という不文律によるところが大きい。

日本では「こども庁」の議論が出てきたことで、ようやく「子どもの人権」というものが真剣に論じられるようになったが、欧州ではフランス革命のあたりから「子どもの権利」や虐待の防止がうたわれ、米国でも1909年にホワイトハウスで第1回全米児童福祉会議が開催された。

絵を描く児童
写真=iStock.com/FatCamera
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しかし、日本ではなかなかそういう話にならなかった。1933年(昭和8年)に満州国で国際社会の中で孤立が始まり、陸軍が少年航空兵制度を始めたあたりでようやく、児童虐待防止法が制定された。ただ、これも「子どもの人権」という視点ではなく、「子どもはお国の大事な戦力」ということで、戦地に出す前に、親が折檻や人身売買で殺すことを規制するためだ。