受賞よりも辞退が評価される滑稽な賞
いかなる賞も、受賞者はもちろんそれを祝う人にとっても本来はよろこばしいものである。
功績を残した者をたたえるのはなにより気持ちがいい。誰かが努力を積み重ねて達成した結果をともによろこび合うことは、社会的な動物である人間としての本能を刺激する。「仲間」への祝福はこの上ないポジティブな感情を湧き立たせる。わが子やその友達、学生時代の友達や職場の同僚など身近な人への祝福は、場合によっては多少の嫉妬が芽吹くかもしれないが、総じてグッドニュースである。いわば「よろこびのお裾分け」が祝福の本質だ。
だが近年の国民栄誉賞はそれが希薄になっている。冒頭に述べたとおり、むしろ祝祭ムードに水を差しているように思えてならない。
辞退した大谷選手には、国内のみならずアメリカでも称賛の声が集まっているという。いまの自分には過分であると辞退した態度が謙虚さの表れであると評価されたわけだ。だがよくよく考えれば、受賞よりも辞退が評価され、それがまるで美徳であるかのように受け取られる賞はおかしい。滑稽だといってもいい。
いつしか国民栄誉賞は、授与を打診された者に受賞をためらわせ、辞退を決意させるほどに色がついてしまった。このまま賞の価値が下落し続ければ厄介なことになる。スポーツへのイメージダウンもさることながら、とりわけ強調したいのはこれまでの受賞者の栄誉への毀損である。
彼らと同時代を生き、その功績を肌身で知る人たちからすれば、彼らへの敬意は揺らがないだろう。だが、未来を生きる人たちにとっては必ずしもそうではない。もしこれから先もいまと同じような仕方で存続し、賞を辞退することがトレンドになれば、過去の受賞者を、授与を甘んじて受け入れた者として軽視する視点がつくられかねない。功績を残した人物にケチがつくような事態の到来は、是が非でも避けなければならない。
スポーツにケチがつく国民栄誉賞はいらない
大谷選手は「まだ早い」という理由で辞退した。過去に3度も授与を打診されたイチロー氏も、「人生の幕を下ろした時にいただけるように励みます」と、同じような理由を口にしている。ここから考えると、少なくとも「顕著な業績」を人生(スポーツなら競技人生)という長いスパンで選考することが求められるのではないか。受賞者の心理的な負担を軽くするためにも、少なくとも2011年以前のような受賞のあり方に戻す必要があるだろう。
もしかすると賞を授与する側からすれば、たとえ辞退されてもこれだけ世間をにぎわすのならそれでよしと考えているかもしれない。スポーツの「喧騒」で洗い流すことが目的なのだから、受賞を受け入れるかどうかは二の次と高をくくっているのかもしれない。
もしそうなら、国民栄誉賞そのものをただちにやめるしかない。
受賞者にも、スポーツそのものにもケチがつくような国民栄誉賞なら、もういらないと私は思う。