MVP獲得をまるで待ち構えていたかのようだった
内閣府によれば、国民栄誉賞はいまから44年前の1977年に始まっている。「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉をたたえること」が目的で、これに該当する個人や団体を内閣総理大臣が随時、表彰することとなっている。
大谷選手の活躍とその知名度からすれば、表彰そのものに異論を唱える人はいないはずだ。過去の受賞者を振り返っても、ひとりの例外もなく「広く国民に愛され」た人物および団体で、その功績が「社会に明るい希望」をもたらしたのは論を俟たない。
だが、この基準が曖昧であることもまた事実である。
五輪でいえば、シドニー大会の女子マラソンで陸上競技日本女子初となる金メダルを獲得した高橋尚子氏や、世界選手権と合わせて13大会連続世界一(当時)を達成した吉田沙保里氏、また五輪史上初の女子個人4連覇を成し遂げた伊調馨氏が受賞しているが、これらと遜色ない大会3連覇を成し遂げた谷亮子氏や野村忠宏氏は受賞していない。「広く国民に愛され」「社会に明るい希望」をもたらしたにもかかわらず、である。
功績に明確な基準がないこと、そしてメジャースポーツの選手に受賞が偏っていることも国民の不信感を招いているといえる。
だが今回私が引っかかるのはここではない。授与の打診をしたのがMVP獲得のわずか3日後という、その迅速さである。まるで待ち構えていたかのような素早い打診に、どうにも違和感が拭えないのだ。賞の目的が社会への影響を考慮していることからも、国民やファンを慮り、MVP獲得そのものをよろこぶための余韻を残す配慮があってもよかったはずだ。なにより大谷選手自身がその余韻が欲しかったはずである。
大谷翔平はスポーツ・ウォッシングの格好のアイコン
ここから私はある恣意を読み取る。
スポーツの政治利用である。つまり「スポーツ・ウォッシング」だ。
スポーツ・ウォッシングとは、米パシフィック大学教授のジュールズ・ボイコフ氏がオリンピックを批判する際の論点の一つで、権力者が自分たちに都合の悪いことをスポーツの喧騒で洗い流すという意味である。スポーツの健全なイメージを使って民衆の関心を集め、政治をはじめとする社会問題から私たちの意識をそらす手法だ。今夏に開催された東京五輪でもこの効果がみられたことはすでに書いた。
メディアは視聴率や閲覧回数、購買数を稼ぎたい。だからスポーツにおいて知名度が高い人物あるいは団体が受賞すれば、こぞってそれを報じる。報道各社は取材や原稿の執筆に人手を割き、編集された映像やテキストが限られた放送時間や紙面の一部を埋める。こうして権力者にとって都合の悪い情報は隅に追いやられる。
スポーツは親しみやすく、思想信条に縛られないカジュアルさを備えている。「堅いことをいうな」という空気を漂わせる祝祭ムードを醸成するにももってこいである。とりわけ日本のみならず世界中にファンを有し、悪評する人がほぼいないという「大谷翔平」は、スポーツ・ウォッシングをするには格好のアイコンである。
矢も盾もたまらずその「洗浄力」に食いついたのが「3日後の打診」だったのだろう。