何もしない母親は父親定年後にさっさと家出
2001年6月。父親が60歳で定年退職。毎日家にいるようになった父親は、あまりにも家事をしない母親を怒鳴るようになる。定年退職から3カ月後、ついに母親は家出し、鳥越さんの姉が一人で暮らすマンションへ逃げ込んだ。
「母が、高齢の夫を残して家出し、姉のところへ行くということは、私に父の介護を丸投げしたということになります。私は子育ても家事もろくにせず、さらに自分の夫の将来の介護まで私になすりつけ、姉の人生まで潰そうとする母の身勝手さを許せませんでした」
このときから鳥越さんは、母親との連絡を絶つ。自衛隊の入隊経験がある父親は、調理師免許を持っており、しばらくは一人暮らしでも問題はなかった。
ドアを開けると、長女は自分の腕にカッターナイフでリストカットを
2002年、長女が小学校に上がると、鳥越さんはPTA活動に参加。最初は他になり手がいなかったため、学年委員長を引き受けたことが発端だったが、その後、文化部長、会長に選出され、経験が長くなると、住んでいる区の連合会役員に推薦され、最終的に副代表まで務めた。
「はじめは、社会とつながりたい気持ちからの参加でしたが、学校でイジメがあると、親と学校との間に入らされるなど、土日祝日関係なく仕事が入り、やることが増える一方で、それをよしとしない夫から『お前じゃなきゃダメな仕事なら、給与をもらってやれ!』と度々言われるなど圧力もひどく、私は精神的に病んでいきました」
鳥越さんは、子どもが小さいうちは家にいてやりたいと思い、自ら仕事を辞めたが、子どもたちに手がかからなくなったら、また働きに出たいと思っていた。しかしそんな思いもむなしく、夫はそれを認めない。相談しようものなら、「お前が働いて稼ぐ金なんてたかが知れている。切り詰めろ!」と怒鳴られるのが関の山だった。
専業主婦の「社会とつながりたい」という思いの多くは、「誰かに存在価値を認められたい」という思いと同義だ。次第に鳥越さんは、責められたくない一心から、完璧に家事をこなし、食事の用意をした上で、休息や睡眠の時間を惜しんでPTA活動を継続。身体的にも精神的にも疲弊していき、心療内科で処方された睡眠薬や安定剤を疑いなく服用。すると、丸3日目覚めないこともあった。
2009年。長女中学2年生、次女小学6年生となっていたある日、鳥越さんは薬の効果が切れ、3日ぶりの深夜に目が覚めた。トイレに向かうと、長女の部屋に明りがついている。不審に思った鳥越さんがドアを開けると、長女は自分の腕にカッターナイフを当てていた。慌てて鳥越さんが駆け寄ると、長女の腕は傷だらけ。よくよく部屋を見渡すと、長女の中学の制服も、カバンも傷つけられ、安全ピンやバンドエイドだらけになっていた。
鳥越さんは愕然とした。
「この頃の娘たちは、自分たちのことをそっちのけでPTA活動に夢中になり、睡眠薬や安定剤を飲んで廃人のようになっていた母親を見限り、口もきいてくれなくなっていました。社会とつながりたくて始めたPTAでしたが、多分、夫や義両親の支配から逃れたい気持ちもあったのだと思います。病的にのめり込み、薬を大量に出す心療内科の薬に依存し、まともに考えられなくなっていました。でも、長女のリスカ現場を目撃して、『私は何をしていたのか?』と、頭を殴られたような思いがしました」
目が覚めた鳥越さんは、区の連合会の副代表を辞め、母親として、娘たちの信頼を取り戻すことに努めた。以下、後編へ続く。