「外国人は皆敵」という思い込み
タリバンがカブールを制圧した時、最大の問題とされたのが、米軍とNATOなど同盟国軍の協力者を退避させることだった。最後まで欧米諸国の手に残されたカブール国際空港の大混乱の様子は多くのメディアが伝えていた。
日本の報道が、奇妙な方向に向かったのはこの時である。日本のJICA(国際協力機構)やさまざまなNGOもアフガニスタンで活動していた。タリバンは彼らの活動を弾圧し、日本の援助活動に協力したアフガン人を拘束するに違いないという思い込みがあっという間に広がった。
そこで出てきたのが、日本の事業に協力したアフガン人の退避だった。しかし、日本大使はそもそも8月15日に任国にいなかった。大使館員もJICAの日本人職員も、いち早く、アフガニスタンを出てしまった。退避が政治問題になったのは、その後だった。
退避はにわかに政治マターとなった。自衛隊機を飛ばし、関係するアフガン人500人ほどを退避させるという計画が政府から発表されたが、結局、退避させたのは日本人1人だけだった。
だが、そもそも日本に協力したアフガン人を慌てて退避させる必要はなかった。タリバンは、日本の援助事業に協力したアフガン人や日本のJICAスタッフ、大使館員を含めて、敵とみなしていなかったからである。「タリバンは外国と協力した人を敵視する」と書いた記事もあったが、タリバンは「外国=敵」などと思っていない。イスラムの誕生以来、ムスリムは民族も宗教も異なる人びとと活発な交易をしてきた。イスラムは、その始まりから商売人の宗教であるから、異民族・異教徒と付き合わないという発想はない。
タリバンにとって、敵だったのは、アメリカとNATO加盟国(特に戦闘に従事した国)のように、軍を派遣した国だった。多くのアフガン人を殺し、傷つけたからである。だが、民生支援に専念した日本が敵視される理由はなかった。
民生支援しかしていない日本は敵視される理由がない
2012年の6月、タリバンは初めて公式代表を海外に派遣し、当時のカルザイ政権側と同席して、平和構築についてのシンポジウムに臨んだ。その場所は日本だったのである。
京都の同志社大学で開いたアフガニスタンの平和構築会議の主催者として、私はタリバンになぜ来日する決断をしたのかを尋ねた。タリバンの代表は「日本が親米国なのは承知しているが、日本はアフガニスタンに軍を送らなかったからだ」と答えた。さらに彼は、この会議が日本政府と関係の深い国立大学の主催なら来なかったとも言った。逆に、同志社がキリスト教系の私学であることは何の問題でもないと言う。実際、会議場は同志社神学館のチャペルだったが、彼らは何の文句も言わなかった。
日本を敵国だと思っていないという姿勢は今も変わっていない。日本政府もJICAもマスコミも、タリバンとコミュニケーションをとっていなかった。タリバンは何年も前から徐々に勢力を拡大していたにもかかわらず、彼らの姿勢を知らなかった。そのため、アメリカを敵視するタリバンは、アメリカの同盟国である日本も敵視すると思い込んだのである。
アメリカが協力者を退避させたのは、軍事作戦に従事させたからである。通訳はその典型だが、米軍の通訳は、日本で私たちがイメージするような通訳とは違う。タリバンを掃討するための作戦で、米兵と共に行動した軍属である。尋問にも携わる。だから、米軍が撤退した後に取り残される恐怖は十分理解できる。彼らを退避させるのは、アメリカとして当然の義務であった。
だが、日本は民生支援しかしていない。タリバンも、国の再建のために、日本の支援に従事したアフガン人に国外に出ないでほしいと要請していた。それを疑う理由もなかったのである。日本政府がやるべきは、タリバンに彼らの安全を保証させることだった。
さらに、日本政府はアフガン人を日本でどう処遇するつもりなのかを何も示さなかった。アフガニスタンの復興のために働いてきた彼らを日本に引き取ったとして、その後、彼らをどんな在留資格で受け入れるつもりだったのか。日本のマスコミも、この点に全く触れていない。彼らを難民として受け入れるつもりだったのだろうか。だが、これまで日本は、中国のウイグル人やミャンマーのロヒンギャ、シリア人をはじめ、ほとんど難民を受け入れてこなかった。