ドロドロの道を辿って気仙沼工場に

若い頃に東京と気仙沼を行き来した古い記憶とカーナビを頼りに、14日の夜が明けようとする頃、吉田たちを乗せた車は山間を抜けて、海岸沿いの国道45号線に出る。東浜街道だ。ここを10キロほど北上すれば、気仙沼工場に辿り着く。

白々とした空の下に広がる海岸沿いの風景は、想像を絶した。国道沿いに広がっていた家並みは跡形もない。夏になると海水浴で賑わっていた海岸も、それがどこかわからない。すべて瓦礫と家屋や車の残骸で覆われていた。国道さえも津波によって持ち込まれた泥に埋まっている。

瓦礫に挟まれたドロドロの道を、どうにか辿って、気仙沼工場に着く。東京を発って、13時間が過ぎていた。

工場の建物は、瓦礫と泥水に埋まっていた。目の前の光景に、吉田は絶句する。どこに、こんなたくさんの瓦礫があったのか。

「絶望感……絶望感なんて通り越している。これは、どういう世界なんだ」

早朝のことで、従業員たちの姿は見えない。工場内は、ミシンや裁断機などが残骸となって、壁際の鉄骨に押しやられていた。2トン近くもあるドイツ製の編み機も100メートルほど流され、鉄骨の柱にぶつかって止まっている。どの機械も、一目で使い物にならないことはわかった。

津波は天井近くにまで及んだのだろう。天井から吊り下げられていた多数の蛍光灯はすべて引きちぎられ、コードだけが無残に垂れ下がっている。

妻も社員も、吉田に一言も声をかけられない。3人はただ寂寞たる思いのなかにいた。

どのくらい時間が経ったのだろうか。吉田は、妻が用意してきた長靴に履き替えて避難所を回ることにした。道には瓦礫が散乱し、至る所に腰まで浸かるような水溜まりが残っていて、歩くしかない場所もあったのだ。

とりあえず、避難所になっていると思われた中学校に出向いた。案の定、体育館は避難してきた700~800人で溢れかえっている。そのなかを吉田は従業員の姿を求めて歩いていった。

「社長……」

すぐに180センチの長身の吉田を見つけた女性従業員が駆け寄ってきた。すでに、目には涙がたまっている。

「私たち、どうしたらいいんでしょう」

こう言い出すと、女性の目から涙が溢れ出た。その瞬間、吉田に「人生のアドレナリン」が噴出する。

何としても工場を再開させる、再開させてみせる――。