後日、吉田は語った。

ラインには中国からの研修生の姿も。

ラインには中国からの研修生の姿も。

「あの姿を見たら、もうやるしかないと思った。藁にもすがるというか。だいいち、気仙沼のあの荒涼とした光景を目の前にしたら、どうにかしなきゃならないという気持ちになりますよ。震災3日目で、まだ自衛隊も入ってなかった。一番ひどいときに、現地に行ったのが大きかった」

その日1日、吉田は避難所を回り続ける。工場長の今泉とも再会できた。会ってすぐ、今泉に「工場を再開する」と告げている。

従業員は、中国人研修生を含め50人ほどの安否が確認できた。残念なことに、女性従業員が1人、亡くなっていた。幼稚園に子供を迎えにいく途中で津波にのみ込まれたのだ。

避難所の駐車場に止めた車で仮眠をとった吉田は、翌日から工場再建に向けて精力的に動き出す。まず、地元の建築業者を訪れ、工場建屋の修復を依頼した。「今は人手も資材もないから無理だ」と断ろうとする建築業者を、「なくても何でもいいから、とにかく現場を一度見てくれ。まず動いてくれ」と強引に説き伏せる。

建築業者も吉田の熱意に負け、1週間後から壊れた機械や瓦礫の撤去を始めた。工場の従業員たちも集まってきた。火事場の馬鹿力で、50キロもあるような工業用ミシンを、女性たちが担ぎ上げて運んだという。床にたまった泥も根気よく取り除く作業を続けた。すべては、再開のために――。

主要取引先であり、阪神・淡路大震災を経験したワールドからは寄せ書きの日の丸が。

主要取引先であり、阪神・淡路大震災を経験したワールドからは寄せ書きの日の丸が。

建築業者への依頼が済んだ翌日、吉田は東京へ帰り、ミシン、CAM(自動裁断機)、CAD(コンピュータ設計支援ツール)など機械類の仮発注に入る。ここでも吉田は「4月中に揃えて、気仙沼に搬入してほしい」と、常識では考えられない要望を行った。

「ジューキミシンさんには、直接本社に交渉して、無理を聞いてもらえることになりました。工場で使う機械は特殊なものばかりですから、簡単には揃わない。わかっていても、とにかくモノを押さえてくれと頼みました」

取引先の各社からも、温かい支援をもらった。主要な得意先何社かが、イタバシニットが商売を続けられるよう、気仙沼工場が正常に戻るまで、中国工場の製品の扱いを増やそうと申し出てくれたのだ。特に、神戸に本社のあるワールドは阪神・淡路大震災を経験しているだけに、接し方も親身であった。担当の部長がわざわざイタバシニットの本社を訪れ、「役員からも応援するように言われている」ことを、吉田に告げている。リンク・セオリー・ジャパンは、原料のイタリア製布地をすぐに手当てしてくれた。

(文中敬称略)

※すべて雑誌掲載当時

(長谷川健郎=撮影)