「あの日」。新日鉄の設備グループ機械整備係長の坂下功正は構内の本事務所の3階にいた。机の書類が崩れ、パソコンも倒れた。揺れが収まると、裏山の避難場所に駆けていった。

<strong>設備グループ機械整備係長・坂下功正氏。</strong>

設備グループ機械整備係長・坂下功正氏。

52歳の坂下はいわば、整備スタッフの“棟梁”みたいな立場である。避難所で約150人の点呼をとった。

「みんなの無事を確認した後、津波がきている、という話になった。“自分たちの家や家族が心配だ”“帰りたい”というので、それではと帰したのです」

坂下は幹部連中とともに会社に残った。まずは工場の被害をチェックしてまわる。工場を動かすエンジン部分の冠水を防ぐため、ひと晩中、発電機とポンプで水のくみ出しにあたった。

「構内にある発電機を使って、24時間、水をかき上げていた。それを3日、4日やっていた。少しでも被害を小さくしたい、1日でもはやく工場を立ち上げたい、という気持ちだった。責任感みたいなものです」

同時に従業員の安否確認もなされていく。釜石や大槌町の甚大な被害情報が徐々に入ってくる。もはや製鉄所を守ればいい、という段階ではなく、釜石の街を守ろうということになった。社員も街のボランティアにあたり、支援物資も市民に回したのだった。

そうなのだ。新日鉄は釜石の街とともに生きているのだ。ここは日本でもっとも古い製鉄所で、1858年に高炉法の出銑に成功し、86年、操業がはじまった。

1960年代までは繁栄をきわめ、製鉄所の社員が約8000人、市の人口が9万人を超えることもあった。だが景気低迷で合理化が進み、89年には高炉が休止された。

現在は世界一の品質といわれる線材の生産拠点である。従業員が約250人。関連会社の社員を加えると、ざっと1000人といったところか。