佐藤内閣福田蔵相は公約泥棒
池田政権の経済政策を批判していたのは、佐藤栄作と福田赳夫です。
急激な所得倍増ではなく、安定成長こそ必要だと主張していました。
池田が自民党総裁に3回目の出馬の構えを見せた時、佐藤は「長期政権反対」と阻止に立候補します。
そして、常軌を逸した金権選挙を繰り広げました。
直後に池田が病気退陣、総裁選で善戦していた佐藤に政権が転がり込みます。
佐藤は最初こそ池田内閣の居抜きで臨みますが、半年後の内閣改造で自前の人事で組閣。
蔵相には福田を起用しました。
佐藤内閣福田蔵相は、池田以上の高度経済政策を採りました。
結果、池田政権4年4カ月と佐藤政権7年8カ月の12年間は、「戦後日本の黄金時代」となりました。
佐藤や福田のやったことは明々白々な公約泥棒で、議会政治の本場のイギリスでは卑怯者のやることと厳に戒められるのですが、日本人は「政治は結果責任だから」と問題にしませんでした。
佐藤を脅かしそうな政敵は、次々と死んでくれました。大野伴睦は既になく、大野派は分裂します。
池田も退陣後にほどなく亡くなります。池田の死の1カ月ほど前の昭和40年7月8日、最大のライバルだった河野一郎も憤死同然に急死しています。
その後の佐藤は、検察を使い旧池田派と旧河野派を弱体化させました(詳細は、小著『検証 検察庁の近現代史』光文社新書を参照)。
もし池田に長寿が許されたらどうなったか
池田退陣から4年後の昭和43年、日本の防衛事情が劇的に変わりえた大きな機会がありました。アメリカのニクソン大統領が日本に核武装を求めてきたのです。
昭和42(1967)年6月、中共が初の水爆実験を実施しました。アメリカはベトナム戦争で苦しんでいました。
ニクソンは同年10月に論文を発表し、その中で「世界の警察官」としてのアメリカの役割は今後限られたものになるからと、日本を含めた同盟国に防衛努力を訴えました。
翌年11月、佐藤首相は訪米しますが、このときニクソン大統領は沖縄の核兵器をアメリカ製から日本製のものへと変えるように促しました(江崎道朗『知りたくないではすまされない』KADOKAWA、2018年)。
佐藤はこれに対して「非核三原則」で応えます。
日本に戦う意思なしと見たニクソンはソ連の脅威に対抗するために中国に近づいていくことになります。
ニクソンが日本に「核武装して大国に戻る気はないか」と打診してきたときの首相が池田勇人だったら、どうでしょう。
外交交渉で「もし軍事力があれば発言力が10倍だったのに」と嘆く池田、「いざとなれば軍事的解決を行う」と即答する池田が、ニクソンに核武装を持ち掛けられていたら……。
日本は核保有国となり、名実ともに大国の一員に返り咲くのは容易だったでしょう。
憲法改正など、当然です。吉田から池田までの歴代総理は、その日が来るまで敗戦国の立場で耐えてきたのですから。
ところが史実においては、佐藤内閣はアメリカの核武装提案を握りつぶしました。佐藤は「日本は永遠に敗戦国のままでいい」と決断したのです。
そんな日本をしり目に、中国はアメリカとの接近を強め、今やアメリカの覇権を脅かしかねない超大国に成長しました。佐藤の取り返しのつかない失敗です。