反対の急先鋒は「国際派」として鳴らした御手洗会長
ところが、当時は経団連の三角合併反対キャンペーンが功を奏し、経済界では「外資が日本企業を食い物にしかねない」といった不安が共有されていた。三角合併反対の急先鋒が「国際派」として鳴らした御手洗だった。日経も経団連と同じ論陣を張っていた。
在日米国商工会議所(ACCJ)は怒り心頭に発した。プレスリリース発表に合わせて私に大量の資料を送り付け、経団連の対応がいかにおかしいかを力説した。一方、日経はACCJのプレスリリースを黙殺し、経団連側の主張を垂れ流し続けた。
そんな状況下で、私は2006年10月31日付夕刊の1面で「外資脅威論」という見出しのコラムを書いた。ACCJの主張を紹介しながら経団連をチクリとやったわけだ。これに経団連はピクリと反応し、日経本社トップにクレームを入れた。
経団連は露骨だった。日経から編集局幹部と共に論説委員や編集委員を呼び寄せ、レクチャーしていたのだ。私はなぜか除外されていた。三角合併問題に最も詳しいと自負していたのに。
署名記事でボツにされたのは私の原稿だけだった
私は編集委員だから自分の責任で署名記事を書いていた。だから経団連が反発していても忖度する気持ちはさらさらなかった。数週間後に「国際M&Aで株式交換を禁止している先進国は日本だけ」といった趣旨の原稿を書き、デスクに送った。定期的に書いていた署名入りコラム用だった。
ところが原稿は社内的に物議を醸した。オフィスでゲラ刷りを受け取り、内容をチェックしていたら、デスクから電話が入った。「申し訳ないですが原稿は預かりになりました」。実際には預かりではなくボツにされていた。
署名入りコラムがボツにされるのは前代未聞だった。しかも夜遅くゲラ刷りが出ていた段階で。私の愚痴を聞いた同僚の編集委員は絶句した。「僕も長く日経にいるけれど、そんなことがあり得るのか……」
その後、私は三角合併について何も書けなくなった。部長・デスク段階で忖度が働き、原稿執筆の依頼が来なくなったのだ。当時の同僚から聞いた話では、三角合併解禁を支持するインタビュー記事などもボツにされていた。ただし署名記事でボツにされたのは私の原稿だけだった。