村上世彰を一度も取材していない記者が1面で解説記事

私は古くから村上を取材し、当時の日本国内では携帯電話で彼を自由に取材できる唯一の記者だった(海外ではニューヨーク駐在の同僚記者がパイプを持っていた)。実際、誰も知らないネタをいくつか仕入れ、そのたびに担当デスクに報告していた。

ところが、どんなに面白いネタを本社に伝えても原稿執筆依頼は来なかった。実際には担当デスクは「ぜひやりましょう!」と前向きになってくれながらも、編集局上層部の判断を覆せなかった。

結局、私は村上ファンドについて何も書けないまま無為に過ごし、同年6月を迎えてしまった。同月に村上はインサイダー取引の疑いで電撃的に逮捕されたのだ。たったの半年間で時代の寵児が立て続けにつぶされ、変革の期待はあっと言う間に萎んでしまった(堀江は同年1月に証券取引法違反の疑いで逮捕されていた)。

村上の逮捕当日にも私の出番はなかった。村上バッシングにくみしなかった私は煙たがられていたのかもしれない。逮捕翌日の日経1面では、村上を一度も取材したことがない記者が解説記事を書いていた。

日経にとどまる意味を見いだせなくなった

私はもともと証券部に籍を置き、マーケットを担当していた。企業取材であれば経営者側ではなく投資家側を重点的に取材するわけだ。しかし2006年3月――それからおよそ9カ月後にNとレストランで怒鳴り合うことになる――に産業部へ異動になっていた。産業部の主な仕事は大企業経営者への取材だ。

異動に際して言われていたのが「経営者100人に取材」だ。要するに、経団連の主張にもっと耳を傾けろという意味合いを持った人事異動だったのだ。当時の編集局長からは直接「将来、本社コラムニストにしようと思っている」と言われていたのだが、経団連企業への密着取材が前提になっていたわけだ。

非常にやりにくかった。それでも「Nのような幹部がいる限りは日経も捨てたもんじゃない」と思っていた。実際、日ごろ私が経団連に批判的な記事を書いても、Nはいつも「正論を書いている。社内のことは気にするな」とサポートしてくれていた(少なくとも私にはそのように見えた)。

だから、社内の風当たりが強くなり、書きたい記事を書けない状況に置かれても、日経を辞めようとは思っていなかった。署名入りコラムをボツにされた後でも、である。

だが、レストランで怒鳴り合いになってショックを受けた。いざというときに一番サポートしてもらいたかったNにはしごを外されていたということがはっきり分かったからだ。そもそも、著名入りコラムをボツにした張本人がNだったのだ。

これ以上日経にとどまる意味を見いだせなくなった。就学前の長女と長男と一緒の時間を増やし、ワークライフバランスを見直したいとも思っていたので、渡りに船だった。