修羅場を生きている人たち
数ある仏像の中でも、女性に抜群の人気を誇るのが奈良・興福寺の阿修羅像。実はインドの神話に由来する仏教神で、三面の精悍な青年の顔と、異様に細長い6本の腕を持っています。
この阿修羅は、自分の娘を力尽くで奪った帝釈天に対して、何万年もの間敵意を持ち続け、がむしゃらに闘い続けます。そうした阿修羅の姿、すさまじい形相で激しく闘う様子から「阿修羅のごとく」といわれるようになったわけです。
また、果てしなく続く戦乱と闘争の悲惨な状況のことを、阿修羅の「阿」を省いて「修羅場」というようになりました。
「人生は勝つか負けるかだ」とか「人生は弱肉強食だ」などと考えている人は、まさに「阿修羅のごとき」姿で、毎日「修羅場」を過ごしているようなものですから、心穏やかな安息の日々など望むべくもありません。
たまたま「勝った」と思える状況に至ったとしても、そこから先もまた「勝つか負けるか」の地雷原が続きます。このように、果てしない敵意は、結局果てしない不安の日々につながっているということなのです。
「阿修羅の変わり身」が教えてくれること
仏教は、こうした「敵意を生む勝ち負けへの執着」から早く抜け出しなさい、と教えています。「勝ち負けを問題にしない心」を胸に抱き、勝ち負けが問題にならない人生を歩みましょうよ、と説いているのです。
大暴れしていた阿修羅も、そうした仏教に触れて以降、長々と続いていた帝釈天との闘争を「イチぬーけた」とばかりに、あっけらかんと放棄してしまいます。
それからは、数々の闘争の経験を生かして仏教を守る神となっていきました。
先に例にあげた「勝ち組、負け組」にとらわれている人、「いつも1番」にこだわる人などは、この阿修羅の「イチぬーけた」の心境に思いを巡らせてみてはいかがでしょう。「イチぬーけた」となったときの、晴れやかな阿修羅の表情を思い浮かべてみるのです。
そうすれば、遠からぬ日にきっと、あなたの表情も晴れやかなものになっていることでしょう。