「私が下したなかでいちばんよかった決断」

二番目の決断の瞬間は広く知られている。それは本人自身が「人生でもっとも大きな決断だった」と繰り返し語っているからだ。

ソニーの前身、東京通信工業が設立されたのは敗戦の翌年、1946年だ。9年後、同社は日本初のトランジスタラジオを発売。同時に製品すべてに「SONY」というロゴマークを入れた。

57年には「ワイシャツのポケットに入る」ポケッタブルラジオ「TR-63」を開発する。世界に対して「SONY」が知られるようになったのはこのTR-63が大ヒットしたからであり、翌58年に同社は東証一部に上場している。

もっとも、このラジオができた当時、大きさは「ポケッタブル」ではなかった。ポケットよりほんの少し大きなサイズだったのである。一計を案じた盛田は自社のセールスマン用に、普通よりも胸ポケットのサイズが大きな特注シャツを用意して、それを着用させ、ポケッタブルに仕立て上げたのである。

ポケッタブルラジオがアメリカのマーケットを制圧する少し前のこと、ニューヨークにいた盛田は、まだ試作機段階だった「TR-52」のセールスに歩いていた。

だが、1950年代のアメリカは当時の自動車を見ればわかるように、「大きなもの」が好きな消費者であふれていたのである。せっかくの小型ラジオも反応はよくなかった。

ただ、一社だけ「10万個、発注します」と言ってきたところがあった。格式ある時計会社のブローバである。

盛田は一瞬、「やった」と思ったのだが、ブローバの仕入れ担当者は、「ある条件」を付け加えた。

「ラジオにブローバの商標を付けてほしい」

担当者は続けた。

「わが社は50年も続いてきた有名な会社なんですよ。あなたの会社のブランドはアメリカでは誰も知らない。わが社のブランドを利用しない手はない」

盛田はすぐに返事をせず、東京にいた幹部たちと街角の公衆電話で話し合った。幹部たちはブローバの担当者の言うとおりだと同意し、「その注文を受けろ」と言った。

だが盛田だけは断固、反対で、その理由をあれこれ話しているうちに手持ちのコインがなくなってしまう。そこで、彼はブローバの仕入れ担当者に「申し訳ないが売ることはできない」と断りを入れた。

後のインタビューでこう語っている。

「これは非常に重要な決断だったんです。(略)

私は、ソニーのブランド以外では製品は売らないと主張しました。品質が高いという評判をソニーはつくりあげなければならなかったのですよ。(略)私が下した決断で一番よかったのがこれでしたね」