部下を心服させた「計算されていない」演出

『吾妻鏡』によれば、実は広常は、この時点でも頼朝につくべきかどうか迷っていた。頼朝が弱気ならば、すぐにでも彼を討って首を平氏に献上し、褒賞をもらおうとすら思っていたという。しかし、頼朝の態度を見て「人主ノていかなヘルナリ」と感服し、恭順を誓う。

組織を表すイメージ図
写真=iStock.com/tadamichi
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地方のボスとして誇り高き広常が頼朝の気概に圧倒された、というわけだが、この話のポイントはそこだけではあるまい。頼朝は、自分の他の「部下」たちへの効果も考えていたはずだ。

遠山美都男、関幸彦、山本博文『人事の日本史』(朝日新聞出版)
遠山美都男、関幸彦、山本博文『人事の日本史』(朝日新聞出版)

頼朝はリーダーとして、常に「見られている自分」を意識し、自ら「威風」つまりカリスマ性を演出していた節がある。それは、「強い棟梁」を求める武士たちが相手だったことと、絶対的な劣勢から出発せざるをえなかったことから、頼朝にとって必要な「戦略」だったであろう。

もっとも、それは必ずしも現代的な「計算された」演出や戦略ではないだろう。今だって、計算だけで人を心服させることはできまい。頼朝自身がだれよりも武士の「心」を持っていたからこそ、それが可能だったのだ。

こうして頼朝は、誇り高い武士の心をつかみ、平氏を倒して鎌倉幕府を開く。

幕府とは何かといえば、武士による武士のための政権だ。京都との関係でいえば隔絶でも孤立でもない。東国の相対的自立という、日本の中世独特の政治システムである。このシステムには先例も手本もなかった。いわば頼朝のオリジナルであり、だからこそ、頼朝は新たな時代の幕開きを宣し、「天下草創」と呼んだ。

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