反乱者が頼みにできたのは同志と家来だけ

さて、体制への反乱者であった源頼朝にとっての「人事」の意味は、平清盛にとってのそれとは、まるで異なる。

清盛にとって出世の要は、自分を引き上げてくれる権力者との関係であった。そこで清盛は、当時の分裂ぎみだった王権のなかで巧みにバランスをとって保身を図った。

それに対し、反乱者の頼朝には、自分を引き上げてくれるような存在はなかった。地位は、自ら戦い獲るしかなかったのだ。

そのために彼が頼みとできるのは、一緒に戦ってくれる同志と家人(家来)だけであった。それを獲得していく――数ももちろん、「やる気」を起こさせる――のが、彼にとっての「人事」戦略だったと言えよう。

頼朝が期待したのは、当然、かつての同志である東国武士たちの助力であった。しかし、平氏への反感があったとしても、東国武士たちは当初、一度負け組となった源氏になかなか付こうとしなかった。これも当然だろう。

数での劣勢を一人一人の「やる気」で補う

当時の東国武士たちは、中央の人事システムの埒外にあり、多くが無位無官である。だから出世やポストの誘惑で動くことは少なかったが、その代わり、「恩こそ主」を標榜した。現実に恩を受けている者のために働く、ということだ。

そして、この場合、「今そこにある恩」とは、平治の乱以降、武家の棟梁であった平氏への恩である。頼朝がいくら「昔は源氏の世話になっただろう」と説いても、あまり効き目はなかった。

結局、頼朝が取ったのは、数のうえでの劣勢を、一人一人の「やる気」で補う戦略だ。それによって、1人をいわば10人分の戦力に仕立て上げる。そのために頼朝はどのような手を使ったのか。

それについて、『吾妻鏡』に印象的な記述がある。挙兵が間近い治承4(1180)年8月のこと。頼朝は、北条時政以下の家人を一人ずつ呼び寄せ、こう言ったという。

「いまだ口外せずといへども、ひとへに汝をたのむ」

つまり、「ここだけの話だが、お前だけが頼りだ」と囁いたわけだ。

これが「諸人の一揆」のための「方便」であろうことは、『吾妻鏡』の編者も冷静に指摘している。そして、「真実の密事」は北条時政にしか語らなかった、としている。