五輪が医療現場に余計な負荷をかけているという事実

当然ながらこの状況で部活を行うことは感染にも大きなリスクだ。じっさい高校生の部活でクラスターも生じている。今回の五輪開催は炎天下でのスポーツ全般を正当化し、それによって子どもたちを熱中症の危険にさらすとともに、新型コロナ感染リスクさえも負わせている。これらは五輪開催さえしなければ防げたはずだ。

新型コロナの急拡大によって医療体制が逼迫し始めてきた状況で、行政は医療機関に対してコロナ病床の拡充のため通常診療の縮小や不急の予定手術の延期を検討するよう要請している。その首都圏には五輪が数万人の余計な人口増加をもたらしている。そしてこれらによって増えた人たちにも新型コロナに限定しない医療需要が生じ得る。熱中症と新型コロナでただでさえ逼迫する医療現場に、さらに余計な負荷をかけているのが東京五輪なのだ。

#オリンピックは関係ない という人たちの思考からは、こういう医療提供体制への視点と配慮が完全に欠落している。開催されたことと感染急拡大は無関係だとしきりに強調するが、そもそもその因果関係など問題ではない。五輪開催が感染制御と医療提供体制の足を引っ張り妨害していることが最も重要な問題なのだ。

五輪と戦争が孕んでいる「装置」

それに引き換え、日本人選手が金メダルを多数獲得しようが、素晴らしいプレーが感動を与えようが、逆境を跳ねのけて出場した選手が希望をもたらそうが、これらの事象には私たちが現在直面している新型コロナ感染急拡大を抑止する能力も効果も一切ない。人命を救うことももちろんできない。「スポーツの力」など、今の状況ではまったく無力なのだ。

「ここまで来たのだから……」「ここで中止してしまったら……」という気持ちは、ひとつの感情としては分からなくもない。しかしその感情を国民の総意であるかのように位置づけることは非常に危険だ。先の戦争、私は当事者ではない。しかし歴史を学べば知ることはできる。何度も踏み止まったり引き返すことができた時点があったにもかかわらず、批判や懸念の声はかき消され、結果、わが国は多くの尊い人命を失った。

「私、本当は今回の東京五輪には反対だったんです。でもいざ始まったら連日のメダルラッシュに胸が熱くなった。選手たちを応援しよう!」と開会式後に言い出した人と、かつて戦時下で「私、本当は今回の戦争には反対だったんです。でもいざ始まったら連戦連勝に胸が熱くなった。兵隊さんに感謝しよう!」と手のひら返しをしたといわれる人に、私はまったく同じメンタリティを見る。

当然ながら五輪と戦争は別ものだ。同列に語るべきではないとの声も知っている。しかしそのどちらも国の威信や愛国心という、統治者にとって国民をコントロールするにあたって極めて有用な「装置」をその根底に孕んでいる。