気にかけてくれる人がいることが「癒し」
解決の糸口が見つからない時は、言葉を失った地点に立ち戻ってみよう。解決の手がかりは、かならず現場に落ちているはずだから。崖っぷちに立たされた人に、どのような言葉をかけてあげるべきだろうか。結論からいうと、本当にかけるべき言葉はそれほど多くない。
大切なのは、こちらからの言葉ではなく、傷つき悩んでいる本人が、自分から語る言葉である。そこでこちらがすべきは、その人自身が話しやすい雰囲気をつくり、その人の言葉に深く耳を傾けることだ。急かしたり苛立ったりせず、その人の心が今どんな調子なのか、ゆっくり尋ねるだけで十分である。実際、その人の心の状態がよくわかっていないのだから、そうするのが当然であろう。わからなければ、素直にそういえばいいのだ。
「今、あなたの心はどういう状態?」
「どれくらい苦しいの?」
それらの質問に対し、答えが返ってこなくても、答えを避けているように見えても、心配はいらない。答える内容が重要なのではないからだ。自分の存在に注意を払い、そのような質問をしてくれる人がいることを、その人が認識することこそが、重要だ。自分の苦しさを気にかけてくれる人が存在するという事実を認識すること、それが心を癒す決定的な要因である。言葉ではなく、私の苦しみに共感する存在が大事なのである。
寄り添ってくれる人が一人いれば生きていける
自殺未遂の話を切り出した彼女の話を、改めて振り返ってみよう。私からのどのような反応が、彼女の救いにつながったのだろうか。彼女が言葉を切り出すのをためらい、そこに生まれたほんのわずかな沈黙、グラスを握る彼女の手が震えた刹那、流暢に話していた彼女が突然どもり出した瞬間、そのいずれにおいても、私は言葉を挟んだり、話題を逸らしたりしなかった。そして、彼女から片時も目を離さなかった。
彼女が気まずそうにしたり、どもったりする様子は、滑らかな機械音ばかり流れ出て来るスピーカーから、ようやく漏れ出た彼女の肉声だった。それは私にとっても、嬉しく貴重な経験だった。私の沈黙が意味する、「本当の彼女」に意識を集中させてそれを尊重しようとする気持ちに、彼女も気づいていた。生き続けたいという本能は、自分の存在がありのまま受け容れられた瞬間を決して見逃さないのだ。
ときおり質問を投げかける以外、私から何かを話そうとはしなかった。もし話しかけていたら、彼女の沈黙や、手の震え、吃音などの大切な信号を見落としていたことだろう。それらは時に、どんな具体的な言葉よりも強いメッセージとなる。
一方、私も、視線や息遣いといった言葉以外の反応を示すことで、彼女の心と寄り添った。それは、重すぎて相手に負担を感じさせたり、相手を押しつぶしたりするようなものではないが、安定感を覚えるくらいには、ほどよい重さだ。私の非言語的なメッセージが、彼女を包み込む温かな布団の役割を果たしたわけである。もちろんこれらは、専門家でなくとも実践できる方法だ。
「私」の苦しみと向き合い、その声に静かに耳を傾けてくれる人であれば、誰でも構わないはずである。その人が何者であるかは、重要ではない。苦しみに心から寄り添ってくれる人であれば、誰でも重要な存在である。そういう人がたったひとりいるだけで、人は救われ、生きられるのだ。
ひとりの力がそれほど強力なのは、人は誰でも、それぞれがひとつの宇宙のごとき存在だからだと私は考えている。うまく言葉では説明できないが、心の世界とは、そういうものなのだ。人間は、一人ひとりが、絶対的な存在である。その人にとって、自分自身が世界のすべてなのだ。ひとりの人間であり、ひとつの世界でもある私たちは、それゆえに、誰もが互いに「唯一かけがえのない人」になれる、大切な存在なのである。
「私」という存在についての物語、自分という存在自体についての物語に火をくべれば、薄れていた生命から、どんどんどんどんと拍動する音が蘇ってくる。「私」という存在の胸の真ん中に両手を当ててあげられる人は、たとえ本人が意図しなくても、心理的CPRに長じた救命士、すなわち「唯一かけがえのない人」なのだ。
心理的CPRとは、「私」という存在が位置するまさにそこを正確に探り当て、渇いた心に「共感」の雨を降り注ぐことである。人を救う力の根源は、「正確な共感」なのである。