誰かが死ななければ「事件」として扱われない
2019年に発生した「元農水事務次官長男殺害事件」を、1996年に発生した「東京・湯島金属バット殺人事件」を、私はひとごとだとは思えない。
どちらの事件も、息子の家庭内暴力に苦しみ続けた父親が、解決のために試行錯誤を重ねたものの、最終的に自らの手で息子を殺害してしまったものだ。この2つの事件の加害者となった父親たちの行いを、正当化するつもりはない。しかし、彼らがどうして息子を殺めてしまったのか、長らく「兄を殺す以外に救われる方法はない」と考え続けていた私には、よくわかるように思えるのだ。
こうして殺人事件が発生して初めて、「家族」は世間から注目を浴びる。なぜ犯行を防げなかったのか、ニュース番組で答えの出ない議論が交わされる。彼らが受けていた家庭内暴力の内容が明るみに出て、それがどれだけ深刻なものであったか、ようやく理解されることもあるかもしれない。
事件にならなければ、どれだけ殴られ続けても、家族だというだけで、問題はなかったことにされ続ける。被害を訴えても、「家族ルール」のせいで誰にも取り合ってもらえない。
しかし、家庭内で毎日のように殴られて、これからも一生殴られ続けるかもしれないことへの絶望から、やむを得ず相手を殺害してしまったとする。そうすれば、もう「家族ルール」は二度と通用しない。一人の人間を、“しかも家族を”殺めた加害者として、刑務所で罪を償わなくてはならない。
もしもこの先、私が、母親が、兄を殺害したとする。そのとき、世間からは一体どんな反応があるだろうか。私たちが苦しみ続けた証しは、そこでしか認められないものなのだろうか。