ところが、私がNHKの番組でカメラを持ち込んで訪問したら、鄭さんは急に日本語が話せない人になってしまう。カメラの前では通訳を介して私と話し、収録後に「韓国語だと面倒くさいね」と笑っていた。

20年に亡くなったサムスングループの李健煕イゴンヒ氏は創業者・李秉喆イビョンチョルの三男で、私と早稲田大学の同期。2019年に日本が韓国に対して半導体材料の輸出規制を強化したとき、その長男でサムスングループの経営トップの李在鎔イジェヨンは、日本に来てキヤノンの御手洗冨士夫氏など財界人に会い、解決策を相談した。政治的な対立の裏では、財界人は個人的なパイプでしっかりとつながっているのだ。

韓国の財閥の第一世代は、日本企業から技術や経営を学んだ。その薫陶を受けた子や孫の代も、日本とのつながりを重視してきた。自動車、電機、造船、あるいはタイヤ、ピアノといった日本の得意分野で、韓国に技術移転したものは少なくない。「産業のコメ」と呼ばれた半導体もその1つだ。

日本の半導体産業が1990年代以降、急速に国際競争力を失ったのは、86年に締結した日米半導体協定がきっかけだった。その交渉はハワイで行われたが日本側代表がソニーの盛田昭夫氏と通産省の黒田眞審議官、米国側はモトローラCEOのロバート・ガルビンだった。このとき1つの密約が交わされた。日本企業が買う半導体の少なくとも2割は輸入にするというものだ。

ガルビンの狙いは米国製の半導体を買わせることだったが、米国の半導体がほとんど軍需用で、日本企業が必要とする民生用がほとんどなかった。輸入2割の約束を果たすためには別の国から買わなくてはならない。そこで、韓国の半導体産業を育て、“輸入”することにした。日本側各社が分担して親しい韓国企業に技術を伝授した。その裏で、シリコンアイランドと呼ばれた九州から、日本の工場で働く技術者が韓国へアルバイトに出かけた。

その後、日本はバブルが弾けたあと、内向き・下向き・後ろ向きの三拍子そろった苦しい時期を迎えた。投資を控えていた日本企業とは反対に、ノウハウを学んだ韓国企業が積極的に投資した結果、日本企業は90年代後半に追い抜かれ、寝首をかかれた形になってしまった。

金大中の改革で韓国人は変わった

日本との関係に強くこだわったのは一世代、二世代前の話だ。サッカーのW杯を共同開催した2002年頃までだろう。今の韓国の新しい経営者たちは、日本への意識がまるで違う。「日本に追いつけ追い越せ」と頑張ることもなければ、もちろん日本企業に育ててもらったという意識もない。

彼らを生んだのは、98年から03年まで大統領だった金大中キムデジュンだ。金大中が大統領になる前年、韓国はタイで起きた通貨危機の煽りを受けて通貨危機に見舞われた。韓国は、国際通貨基金(IMF)に支援を要請し、210億ドルという史上最大規模の融資を受けた。IMFから“進駐軍”がやってきて韓国経済は管理下に置かれた。