「ほら! 外から誰かが毒を垂らしてきた!」
退職した母親は、一日中家の中に閉じこもるようになっていった。
昼間でもシャッターや雨戸を閉めっぱなしにし、雨戸がない窓はアルミ箔や新聞紙、ダンボールなどで覆い、換気扇はラップで隙間を塞ぐ。なぜ換気扇を塞ぐのかと訊ねると、母親は「換気扇の外から誰かがスプレーで毒を入れてくる!」と答えた。
換気扇をラップで塞いだまま回し、揚げ物や炒めものの料理をするため、たちまちラップは油まみれになり、壁に油が滴る。すると母親は「ほら! 外から誰かが毒を垂らしてきた!」と言う。柳井さんが「ラップについた油が熱で垂れてきたんだよ! 危ないから外して!」と外そうとすると、大激怒。浴室の換気扇も同様で、窓も開けられず、換気扇も塞がれ、家の中は昼間でも暗く、カビ臭い湿った空気が充満していた。
「あとでわかったことですが、母が『スプレーで毒を家に入れている!』というのは、隣に運送屋があり、車を高圧洗浄機で洗っている音を毒スプレーだと思い込んでいたようです。しかし、それを母に説明したところで受け入れてはもらえず、当時は母対その他の家族で、ケンカばかりの毎日でした。私たちはただ、おかしくなっていく母を、何とかして元に戻したい一心でした」
家の中は常に重苦しい空気が漂い、家族全員がいつもイライラしていた。母親の言動を否定すると悪化するように感じた柳井さんは、試しに肯定してみたが、良くなったように感じるのは一瞬のことで、結局、異常行動を繰り返す。
やがて2014年、柳井さんは入籍し、夫と2人、結婚式をどうしようかと悩んでいた。
「海外ウェディングなら母親の妄想がなくなるのでは?」という期待
母親はもともと引っ込み思案。そんな母親が、娘の結婚式で人前に出られるのか?
そこで夫は、「海外挙式にしてはどうか?」と提案。「国内で追跡や光を恐れるなら、海外に行けば落ち着くかもしれない。妄想の相手は海外までついてこないだろう」と。この提案を、柳井さんも父親も妹も、家族全員がわらにもすがる思いで受け入れた。
このことを母親に話すと、何度目かの説得で渋々承諾。嫌々な母親の様子に、柳井さんは「娘の結婚式なのに!」と怒りと悲しさがこみ上げ、母親と柳井さんの仲は一気に険悪になる。見かねた父親と妹が間に入ってくれ、何とか母親をハワイまで連れ出すことができた。
しかし挙式当日。スタッフから、「お母様は挙式の最初に、花嫁のベールを下ろしてください」と言われた母親は、「いや、私はやりません」と首を振るばかり。このやり取りを見ていた柳井さんは、涙を堪えるのに必死だった。スタッフと妹が母親を説得し、何とか母親は役割を遂行したが、あまりにも義務的で雑なベールダウンに、真っ白なウェディングドレス姿の柳井さんの心の中は、再び怒りと悔しさと悲しさでいっぱいになった。
さらに、柳井さんたちの「海外なら妄想がなくなるのでは?」という期待は、もろくも崩れ去る。母親はハワイにいる間も、「光が私を狙ってる!」と言い、母親がホテルの部屋から出たのは挙式とその後のランチ、そしてほんの少し海へ行ったくらいだった。
だが、自宅にいる間と違い、母親はホテルの部屋ではカーテンを締め切らず、ベッドに横になりながら海を眺めていたと妹から聞くと、柳井さんはわずかに救われる思いがした。