プログラマのスキルだけを持って、一人上京

親からは一人暮らしを許されなかったために同居を続けていたが、ある日突然、親の都合で、同居していた家に住むことができなくなってしまった。

思い切って大好きな出雲を離れよう。時代はITバブルの真っただ中で、プログラマであれば仕事はある。2001年、中川さんは培ってきたスキルだけを持って、東京に出ることを決めた。

上京してすぐ、財閥系IT企業の派遣社員として2年勤めた。ここでは研修のプログラムを作っていたが、それを客先の社員に教える業務にも就いた。「自分は人にものを教えるのが好きなんだ」と実感したのはこのときだった。ただ、自分の裁量がないことはつまらなかった。

その後、大手シンクタンク系列企業の派遣社員になり、しばらくして正社員に登用される。ここではWeb開発もやってみたが、表面的に外側を作るWebには興味が向かなかった。システムそのものを作り、誰かを幸せにすることで、役に立ちたかった。

出産で予期せぬ異動でも“置かれた場所で咲く”

2009年に社内結婚し、その4年後に出産した。産後は仕事へのコミットを弱めることにして、育児休暇が明けたときには時短勤務に変更した。だが、そこからはシステム開発に携わる部署には戻れなかった。

このとき、他社のブランド構築をする部署に異動になった。今までとは異なる仕事ではあったが、「与えられたものに最善を尽くそう、と思いました。今までずっとそうでしたから」と中川さんは当時を振り返る。置かれた場所で咲く、それが中川さんの矜持だった。

二人目の妊娠が分かったころ、夫は中国・北京の駐在員となる辞令が下りた。辞令を断ろうとする夫に対して、中川さんは「私だったら絶対行く。チャンスじゃない。行きなよ」と背中を押した。中川さんも中国語を猛勉強し、産後すぐに子どもたちを連れて北京へ向かった。

そこで初めて、中川さんは「ファッション」と出会うことになる。