もちろん、「白状」ばかりをしていてもいけない。いつでも感情的な人だとみなされて、信頼を失ってしまうことだってありえる。あくまで普段は冷静な人が、あるとき、正直な感情を見せるからこそ、その言葉に特別な意味が宿るのだ。

相手の心を動かしたいとき、どうしてもわかってほしいことがあるとき、相手の心が閉じてしまっていると感じるとき――。「白状」は、そんなときのために、大事にとっておこう。

危機的な状況でこその愚鈍さ

僕の性質として、世の中の急な変化に、敏感なところがある。そして、その変化に極力飲み込まれず、淡々とした毎日を続けようとする傾向がある。みんながそろって同じ方向へ動こうとしているとき、その空気に流されることに、強い警戒感があるのだ。

ひどい災禍が起きたり、大変な事態に見舞われたりしたときに、社会は急激に変わっていく。みんながソワソワしはじめ、不穏な空気が世の中を包み、人々はせわしなく動く。でも、物事が沈静化した後で、当時のことを振り返ると「ただ右往左往していただけだったな」「結局動かなくても、変わらなかったな」と思えることが多いと、僕は思うのだ。

新豊洲Brilliaランニングスタジアムにて
撮影=関健作

そんなときにもっとも強いのは「いままでしてきたことを、愚鈍にやりつづけられる人」ではないだろうか。どっしり構え、細かな情報に一喜一憂せず、ときにはあえて、情報を遮断する。危機的な状況でこそ、愚鈍でありつづけることを心がけておきたい。

何が正しいかわからず、混乱を極める状況では、普通のことを普通に続けるのが難しくなってしまう。僕自身も、焦って動いてしまったことがある。そして、失敗したときの原因の多くは、その焦りにあったように思うのだ。「10年後の僕が見たら、いまの僕はすごくバカげたことをしていないか?」。そんな視点をもつといいだろう。長い時間軸を意識して、自分の行動を観察してみよう。

本来の自分などない、と考える

僕たちは日々の暮らしの中で「この人の前では謙虚な姿勢で」「あの人にはフランクに」というふうに、「自分」を常に調整し、使い分けている。そう考えると、数えきれないほどたくさんの「自分」がいて、「どれが本来の自分か、わからない」と悩む人もいるのではないだろうか。でも、僕はこう思う。そもそも「本来の自分」なんて、いないんじゃないか。

「自分は本来、こんな人間」「私はこうあるべきだ」というように、自分で自分を決めつけて、そこから逃れられなくなり、苦しくなってしまう人がいる。もしあなたがそういう傾向にあるのなら、「ある場所での自分は、別の場所での自分とは、違っていいんだ」と考えてみることをおすすめしたい。その都度出てくる「自分」を認めてあげたほうが、肩の力が抜けるし、本来もっているポテンシャルを活かしやすくなるはずだ。