不相応すぎることをやると人はしくじる
こうしたやり取りは、昔からいろいろなところで見られます。古くは1156年の「保元の乱」のときに、源鎮西八郎為朝の父、源為義が「我がほうは兵が少ないし、夜襲をかけましょう」と提案したところ、藤原頼長が「それは田舎者のすることだ」と却下。為義はその時点でこれは負けると思った、という話がすでにありますので、義弘の話もどこまで本当かはわかりません。
しかし少なくとも、島津義弘が気持ちよく「よし、戦うぞ!」と思うことができない状況にいたことは確かで、その原因は、おそらく三成にあったはず。それを踏まえても、三成はやはり大将の器ではないという感じがします。
三成もかつては自ら戦場に出ていたし、その後も補給部隊を担当してきましたから、まったく戦争を知らないわけではありません。補給、ロジスティクスは戦争の重大な要素で、太平洋戦争のときの日本軍はこれをおろそかにしたために負けたとも言われるほどで、極めて重要なパートであることは間違いない。
しかし補給部隊を率いていた三成が、大将として天下分け目の戦いの場に出てきたとき、それを乗り越えられるような経験もなければ才覚もやはりなかった。人はあまりに不相応なことをやると、得てしてしくじってしまう。そんな教訓を教えてくれます。