人類は昔に比べてより「バカ」になった

だからと言って今後も必ず起こるであろう巨大地震のたびに発生するデマを、ただ座して甘受しておけばいいのかという話にはならない。地震とデマは必ずと言ってよいほど相関するが、国民皆ネット時代になった現在、その伝達力はけた違いである。幕藩体制期、江戸から大坂まで早飛脚を用いても情報通信は最低3日(片道)かかった。だが現代、ネットや電話を介せばそこに時間差はない。この速さはある種の恐怖である。

南海トラフや首都直下型地震という、将来起こるであろう超巨大地震の際、デマは一瞬にして全国津々浦々に拡大するだろう。そこから発生する急性的な騒擾は一次的には官憲の手におえないで暴走する危険性をはらんでいる。

要するに一人の人間に浴びせられる情報量は昔に比べるとけた違いに増えたが、それを受容する人間側は少しも進歩していないという事である。相対的に考えれば、より膨大な情報(それも正確な)を得られる環境になったにも関わらず、低リテラシーの人が相も変わらず存在するという事実は、人類は昔に比べてより「バカ」になった、と判定せざるを得ないのである。

「長考」こそがデマを見抜くために必要なことである

国民皆ネット時代におけるこういった「低リテラシー」の人々への処方箋は、批判精神の涵養と「長考」である。批判精神は常に他者の言説を疑うこと。校正や編集、つまり段階を経て精査された情報に対し信頼性を持つこと。逆に言えば段階を経ないで放たれるSNSのつぶやきは常に懐疑の心を持つこと。

これをしっかりと学童の時代から教育しなければならない。またSNS時代に発せられるデマは、「少し考えればその真偽が容易に判明する」ものが殆どである。本稿冒頭で述べた「熊本のライオン」は実際には南アフリカの街頭に一定の加工処理をしたものだったが、その知識が無くてもよく写真を見ればその街並みや看板が日本ではない、とすぐわかる。つまり長い熟考能力を育めば、そういったデマはフェイクであると容易に判断がつく。

しかし、現代において「長考」「熟考」は排斥される傾向がある。ユーチューバー等の跋扈により、10分を超えない短尺の動画が好まれるようになった。2.5~3時間を超える長編映画(インターバルを含むもの)は敬遠され、できるだけ120分に収まるように製作される傾向が顕著だ。70年代、80年代のテレビアニメは4クール(52話)が当たり前だったが、現在は1クール(13話)が標準的だ。ビデオレンタル店には「90分以下で見られる映画」のコーナーが設置され、「できるだけ短時間で効率的に」消費されるコンテンツが好まれている。