「説得」ではなく例え話で「納得」させる
マーシャールとは、古代オリエントで培われた知恵文学のことです。分かりやすく言うなら「譬え話」です。
民族の知恵が凝縮され、さらにユーモアが加味されていれば申し分のない譬え話(マーシャール)になります。ユーモアは、論理がわれわれの脳に強いる線的思考の束縛から解き放ってくれます。マクルーハンの駄洒落(ワードプレイ)がそうだったように。
レジスターを売るとき、機能と価格で売ろうとするのは知識による「説得」です。ですが、いくら機能と価格で「説得」できたとしても、最後の購入の手続き(契約)までしてくれなければ意味がありません。それをT氏は顧客を説得することなく、ユーモアある「譬え話」を使ってセールスの結果を出していました。
イエス・キリストも「譬え話」で伝道しました。セールスと伝道は論破しても意味がないのです。コミュニケーションにおける相手への効果を重視したマクルーハンの手法は、まさにこのT氏やイエスがとった手法と同じだったと言えます。つまり、アナロジー的な理解への誘導です。
世の中には、譬え話でしか相手が納得してくれないことがあるのです。そもそも聞く耳をもたない人を論理で説得しようとしても無理というものでしょう。そんな場合でも譬え話が有効な理由は、譬え話がハイコンテクストなコミュニケーションだからです。
知っていることと伝えたいことの共通点を示す
同じ文化を共有している相手に用いれば、譬え話に暗示されたメッセージは、なんなく聞き手の心に入り込むことができます。山本は、聖書学者リキオッティの次のようなマーシャールの定義を紹介しています。
人を征服しないで納得させる言葉がマーシャールなのです。
それは、マーシャールに暗示された「聞き手がすでに分かっていること」と「話し手が新たに伝えようとしているまだ分かっていないこと」がどこか似ていることに感動とともに気づく結果、「分からなかったこと」が分かってしまうということです。
それは一つの創造行為です。あの湯川秀樹博士も、「譬え話」が聞き手のみならず話し手にとってもいかに創造的かをこう語っています。
実証でもない。演繹論理でも帰納論理でもない。(中略)譬え話そのものが、自分自身の考えた道筋を表している場合が多いように思われます。「荘子」など見ても、いろいろ面白い譬え話がありますけれど、荘子自身もそういう譬え話を考えることによって、この世界を理解した。それがそのまま創造的な活動であった。(湯川秀樹『創造への飛躍』)
譬え話は、話し手自身がその複線構造を通じて思索を深めていくための手段でもあるのです。