「とにかく、なんでもやってみる」しかない
ここまで、すべての人が自分の喜怒哀楽に素直に向き合い、真に自分が夢中になれることに皆が仕事として取り組み、仕事そのものから得られる悦楽や面白さが報酬として回収されるという高原社会のビジョンを提案してきました。
さて、このような提案に対しては「そのような社会はたしかに素晴らしいけれども、実際に自分のことを振り返って考えてみると、そもそも自分が何に夢中になれるのか、よくわからない」という戸惑いの反応があると思います。
たしかに、いくら幸福感受性が回復できたとしても、いまだやったことのないモノについて、自分が夢中になれるかどうか、を事前に察知することはできません。さて、どのようにすれば、自分が夢中になれる仕事を見つけることができるのでしょうか。
答えは一つしかありません。
とにかく、なんでもやってみる。
これに尽きます。友人である予防医学者の石川善樹さんは、ハーバード大学に留学していた際、あまりにも自分の興味範囲が広いために何からどのような優先順位で手をつけてよいかわからず、悩んだ挙句に指導教官だった教授に相談してみたところ、次のようにアドバイスされたそうです。すなわち「興味のあることは、全部やりなさい。興味のないことも、全部やりなさい」と。実に強烈なアドバイスですが、これは即ち「とにかく、なんでもやってみなさい」ということです。
「正しい人生のあり方」にとらわれると失うもの
私たちは「いまを未来のために手段化する」というインストルメンタルな思考様式に浸かりきってしまっているので、寄り道をせずに最短距離でゴールを目指すのが「正しい人生のあり方」だと考えてしまいがちです。
しかし、そのような人生設計のもとに、無駄だと考えられる営みをすべて斥けて日々を積み重ねていけば、もしかしたら偶然に出合うことができたかもしれない「自分が本当に夢中になれる活動」に触れる機会もまた斥けてしまうことになります。
このような労働観が支配的になっている現在、私たちの「生」は実に世知辛い、レースのように殺伐としたものになってしまっています。これをこれからやってくる高原社会に持ち込むことはなんとしても避けなければなりません。
特に日本において問題だと思うのは「成功者のモデルイメージ」に多様性がなく、「成功」という概念の幅が極端に狭くなっているために、皆が一直線上に並んで序列の優劣を競い合うようなギスギスした状態になってしまっている、ということです。
私がここでいう「幅の狭い成功者のイメージ」とは、たとえば「有名大学を卒業してブランド企業に就職してバリバリ仕事をこなして年収を上げて都心の高級マンションに住んで高級外車を乗り回すようなセレブライフ」といったものですが、このようなイメージの実現に強迫的に捉われてしまうと、このイメージの実現に直接的に貢献しないと考えられる活動を全て「無駄」として切り捨ててしまい、結果的に本質的な意味で「より豊かで自分らしい人生」を見つける機会を逃してしまう可能性があります。