文武両道を続け、中学受験で難関の渋渋に合格した
公文、水泳、バスケットボール、エアロビクス、コルネットにピアノ。大脳前頭葉視覚野が活性化するという話を聞き、そろばんも習わせた。水泳は4泳法を習得。筋肉の柔軟性をしっかりと養うことができ、後の柔道に大いに役立った。すべての習い事は輝哉氏が決め、分刻みのスケジュールも輝哉氏がマネージメントしていた。
柔道だけは、沙羅選手自身が「やりたい」と言いだした。小2のとき。たまたま習い事が休みの日、沙羅選手はアテネ五輪をテレビで見ていて、鈴木桂治選手が、小外刈りでロシアのタメルラン・トメノフ選手を破った試合に強い感銘を受けたという。
「鈴木選手の姿が“キラキラしていた”と目を輝かせて言うんです。初めて自分からやりたいと言いだしたので、近くの警察署に行ったら、講道館を薦められました」(輝哉氏)
父娘で講道館を訪ねると、入門を認められ、その日のうちに練習開始。もちろん「やる以上は徹底的に」という朝比奈家家訓に忠実な輝哉氏のこと。柔道の練習でも、基本である「前回り受け身」を毎日100本、親子で一緒に続けた。
沙羅選手には柔道の天賦の才があったようで、練習を始めて2年ほどで講道館の先生から「沙羅、お前は普通に練習をしていれば、将来必ず全日本クラスの選手になる。今からインタビューを受ける練習もしておこう」と太鼓判をおされたという。
文武両道の生活を続けた沙羅選手は、中学受験で渋谷教育学園渋谷中学校に合格する。そして、中学2年のときには全国中学校柔道大会で優勝。以後、国内外の強豪たちと戦い、ついには世界王者にまで上りつめるのである。
中学生の沙羅をオペ室に入れ、本物の手術を見せた
図らずも娘が柔道で快進撃を始めた一方で、輝哉氏の「沙羅を医学部に進学させる」という夢は、「柔道と勉学との両立」という難しい時期になってもまったく揺らぐことはなかった。
「スポーツ選手のセカンドキャリアを考えると、現状、日本では厳しい環境にあります。引退した後、どうするか。選択肢を増やすためにも勉強を続けることは必須でしたね」(輝哉氏)
大学受験や国際大会のインタビューに備えて英語力を鍛えるため、どんなに眠くてもラジオの基礎英語を聞かせ、その日のダイアログ(対話)を完璧に暗記するまでは寝かせなかったという。
一方で、沙羅選手の適性を見るため、小さい頃から、輝哉氏が行う動物実験を見学させたり、マウスの解剖や実際の医学シミュレーション体験も続けていたという。
「朝比奈家の家訓のもう一つに『本物志向』というのもあります。子供向けの職業体験施設に連れていっても、本当のモチベーションを持たせることはできないと私は考えています。やっぱり本物を見せなければダメ。それと、今の医療界に対する問題意識もありました。厳しい状況になると患者に寄り添うどころか逃げだす研修医を少なからず見てきました。勉強ができるだけで、適性を欠いたまま医学部を受験した結果ではないでしょうか。上司に頼み込んで、中学生の沙羅をオペ室に入れ、本物の手術を見せたこともあります」(輝哉氏)
“輝哉流”はどこまでも徹底していた。