甲子園球場にはビールや酎ハイを売る「売り子」がいる。作家の岸田奈美さんは大学生時代、ビール売り子に憧れてアルバイトに応募したが、配属先はホットコーヒーの販売だった。そこで岸田さんは「歴代で最も多くのコーヒーを売った女」になった。その方法とは――。

※本稿は、岸田奈美『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』(小学館)の一部を再編集したものです。

阪神甲子園球場
写真=iStock.com/bee32
※写真はイメージです

ピンク色のスカートで、ビール樽を背負うはずだった…

まだ会社員だったころ、甲子園へ高校野球を観に行った。何気に、わたしにとっては毎年恒例の行事である。あだちみつるの漫画にがれすぎたゆえの行動力。

高校野球っていったらもう、青春の代名詞じゃないですか。かくいうわたしもね、してた。青春。

甲子園球場の売り子のバイトを、大学生時代に。

ほら、あれですよ。わかりますか。ピンク色のスカートはいて、ビールのたる背負って。

「アサヒスーパードルァァイいかがですかー?」って。客席の花形ともいえる。

正直、あこがれてた。はちゃめちゃにあこがれてた。

父から「お前には浅倉南の“南”って名前をつけようとした」っていわれた記憶を、勇気に変えて。甲子園球場の浅倉南に、わたしはなりたかった。

そんで売り子に応募して。トントン拍子びょうしで受かって。

「いやー、すこぶる順調。生まれもってのスターだわこれは」くらいにね、思ってた。堂々と。何の疑いもなく。

初出勤日に、ホットコーヒーの箱をもたされるまでは。

見たことある?

39℃のとろけそうな日に。ビールやら酎ハイやらカチ割氷やらが、飛ぶように売れる日に。

ホットコーヒー、売り歩いてる女を。

見たことない。そんな純度100%の奇行、見たことない。

逆張り思考にも限度がある。

しかもこれ時給じゃなくて、歩合制だから。一杯20円とか30円の。シビア極まりない。

制服はくすんだ紺色、ズボンにはポッケがいっぱい

制服も「思ってたんとちゃう!」とさけびたくなる出来。

まず、色。ピンク色じゃない。この世の終わりかと思うほど、くすんだ紺色。

スカートでもない。ズボン。パンツでもキュロットでもなく、ズボン。ポッケがいっぱい。

追い打ちをかけるかのごとく、わたしの順調に育った太ももに悲鳴を上げてる。パッツンパッツン。

更衣室で鏡見た瞬間に思った。さすがにこれはないな、と。売り子のとりまとめをしているお兄さんに聞いてみた。

「あの……なんでわたしだけホットコーヒーを?」
「ああ! ひとりはね、そういう需要にこたえられるようにね、入れてんのよ」

どういう需要なんだ。

「岸田さん、面接の自己PRピーアールでひとりだけ、ストライク入ったときの敷田直人しきたなおと球審のモノマネしたでしょ。なんかこの子なら、ニーズと真逆の商品も売ってくれそうだなって……天の邪鬼の才能っていうのかな」

ニーズと真逆を自覚しておきながら、それでもなお……?

この人、天の邪鬼っていう言葉の意味をたぶんわかってない。

どうやらまわりの人の話を色々聞いてると、このバイトには、露骨ろこつに血で血を洗うほど厳しい顔採用があるらしい。

ちなみに、わたしがバイトしていた当時の話なので、いまは知らない。