不自然で不十分な「ディスプレイ越し」のコミュニケーション

人間は、太古の昔から群れをつくって生活し、群れの内外でコミュニケーションを繰り返してきました。コミュニケーションの成否は群れのなかでの地位や生存、子孫を育てる環境の良し悪しに直結しましたから、傾向としては、コミュニケーションを好む人間が子孫を残しやすく、コミュニケーションを嫌う人間は子孫を残しにくかったことでしょう。

こうした進化心理学的な見立ては、現代人にもある程度まで当てはまります。社会的成功をおさめるにも、社会的地位を獲得するにも、パートナーを見つけて子孫を育てるにも、コミュニケーションは避けて通れません。私たちの心が、コミュニケーションがうまくいったと感じると充実感を得て、うまくいかなかったり禁じられたりすると滅入ってくるようにできているのは、コミュニケーションをとおして協力しあいながらサバイブしてきた先祖の心を引き継ぎ、コミュニケーションをしたがるよう動機づけられているからに他なりません。

そして従来の人間が行ってきたコミュニケーションの大半は、顔がみえる距離で直接話すこと、それも、しばしばスキンシップやボディランゲージを交えつつ話すことでした。最近ではディスプレイ越しのコミュニケーションがすっかり当たり前になっていますが、これは、人間にとってまったく新しいコミュニケーションです。そして本来、多くの人にとって不自然で不十分なコミュニケーションでもあります。

動物としての人間には「新しい生活様式」は難しい

今、感染対策を推し進める立場の人々は、「新しい生活様式」の名のもと、これまでのコミュニケーションを自粛するよう、そしてコミュニケーションに利用されてきた場所に人々が集まりすぎないよう提言しています。感染者を減らすために必要な提言ではありますが、ディスプレイ越しのコミュニケーションで満足できる人はけして多くはありません。なぜなら、私たちが先祖代々営んできたコミュニケーションとは、もっと距離が近くて、しばしば接触を伴っていて、もっと身体的なものだったからです。子どもや青少年がコミュニケーション能力を身に付けていくという観点からみても、従来のコミュニケーションを体験する機会は必要でしょう。

私たち人間が、本来、もっと近い距離で、もっと接触してコミュニケーションする動物だったことを思い出すと、「新しい生活様式」とはなかなか過酷な要請です。控えめに言っても、スキンシップやボディランゲージを交えてコミュニケーションする、動物としての人間の性質を疎外していると言えます。そうしたなか、一部の人々がカラオケボックスで密になってしまったり、夜の街に繰り出してしまったりしているのは、禁じられたコミュニケーションを取り戻さずにいられなくなった表れなのかもしれません。もちろん実際にそうしてしまう人々は氷山の一角に過ぎず、水面下には、お盆に帰省できなかったことを残念に思っている人やコミュニケーションを制限されていることにストレスを感じている人が大勢いらっしゃるでしょう。