理想だけを言える環境にいる人たち

数年前に、「ノー農薬・ノーワクチン・ノー添加物」を標榜する団体を主催する主婦の方から落語の仕事の依頼が来たことがありました。内容とギャラとの条件に見合わず忙しかったこともあり丁重にお断りしたのですが、「○○さん」という著名な作家さんの名前を挙げて「○○さんはその金額でお受けしてくださいました」などと言われました。

「いや、○○さんは作家で稼いでいるはずですが、私は講演や落語など喋る仕事がメインですから」と伝えると揚げ句「ボランティアだと思ってください」などと言われてしまい、「ボランティアというのはこちらのセリフでそちら様がおっしゃるべきセリフではありませんよ」と言うと不本意そうに電話を切られてしまいましたっけ。

「自分たちがやっている仕事は正しいものだ。正しいからすべての人たちがその考えに賛同すべきものだ」というこれも正義中毒の「亜種」でありましょう。食い扶持はご主人に委ねているような環境にいるせいか、得てして専業主婦各位の中にはそのような考えをお持ちになる人が多いのかもしれません(無論全部が全部そうだとは言いませんが)。

「理想」を追い求める人たちは「理想だけを言える環境にいる人たち」でもあります。そんな人たちが大勢集まると理想が先鋭化してゆくのでしょう。

それは農薬も、添加物も、ワクチンもない世界がいいに決まっています。だからといって完全にそれらを拒否できるような世界には現実的に住めるわけがありません。

正義を追求する姿勢や、正と邪とを峻別しようとする価値観は尊いものかもしれませんが、行き過ぎると偏ることにもなり、さらに偏り過ぎるとそこにはファシズムが口を開けて待っているようにも思えてくるのです。

新型コロナウイルスに関しても、ゼロリスクという理想を掲げ、感染者ゼロを目指すことは立派かもしれませんが、突き詰めるとそれは感染者を徹底的に差別する心理に結びつきかねません。

落語「小言幸兵衛」は「ゼロリスクおじさん」だった

では、どうすれば偏らなくなるのでしょうか。

ここで思い返すのが、「小言幸兵衛(こごとこうべえ)」という落語です。

次のようなあらすじです。

麻布の古川に住む大家の幸兵衛は、毎日長屋を回って、小言を言い歩いていた。家に戻ると、女房や猫にまで小言だ。そんな塩梅だから「空き店を借りたい」と言って来る店子にも難癖を付けて追い払ってしまう。ある日、ぞんざいな態度の豆腐屋が来たので追い返した。次に仕立て屋がやって来ると、応対も紳士的で気に入ったはいいが、「二十歳になる息子がいて、しかも二枚目」といい雲行きが怪しくなる。幸兵衛は仕立て屋に「お前の住もうとする空き店の近所に今年19歳になる古着屋の一人娘がいる」と言う。さらに、「その娘とお前との倅が出来てしまう。両親が反対しているから心中するぞ」と妄想を膨らませていく……。

背景を考慮すると、江戸の長屋の大家さんというのは、町役という大きな任務も背負っており、何か店子が問題を起こすと連帯責任を負わされる立場であったとのことです。この「小言幸兵衛」、談志の得意ネタでもありました。

かような「幸兵衛のストレス」を「先の見えないコロナ禍」という現代の状況に置き換えてみると、「他者にゼロリスクを求める心模様」が、浮かび上がってくるような気になりませんでしょうか。つまり、幸兵衛は「江戸版ゼロリスクおじさん」だったのです。