「おいユタカ、宇宙の向こうに何があると思う」

その後の東京遠征のときだった。夜中の2時過ぎに、池田が突然江夏の部屋にやって来た。

「おいユタカ」

またあのエラーのことを言うのかと思い、つい「うるさい」と言ってしまった。

「ちょっと聞かせてくれ」

池田も譲らない。仕方なく江夏は起きて話を聞いた。池田は寝ぼけ眼の江夏に聞いた。

「ユタカ、宇宙の向こうに何があると思うか」

意味がわからなかった。何を言っているのだろうと思った。だが池田の顔は真剣そのものである。

「俺もわからんよ」

江夏が言うと、池田は呟いた。

「宇宙に壁ってあるのかな。無限じゃないよな」

そんなやり取りが30分か40分続いた。江夏も鬱陶しくなって「早く帰って寝ろ」と声をかけるしかなかった。江夏は言う。

「以前の純一の良さがなくなった。エラーしたことを気に病んで、相当苦しんだんじゃないか。それは見ていてよくわかりました。ふつう野球選手が宇宙の壁がどうしたとか言わないでしょう」

池田の一軍での出番は徐々に少なくなり。昭和53年のオフ、球団から自由契約(戦力外通告)を通告された。このとき32歳、入団から14年、呆気ないプロ生活との別れだった。

引退後もバッシングは続いた

池田が引退後に選んだのはジーンズショップの経営だった。夫人が以前ジーンズ店で働いていたこともあり、思い切って野球以外の仕事をすることにした。もうプロ野球界から離れ、早く忘れたいというのが本音だった。妻のゆかりは語る。

「野球が大好きでプロ野球選手になったのに、あのエラーですごく苦しんで。あれさえなければもっと野球を続けられたのに、という思いだったのではないでしょうか」

池田が第二の人生に向かって必死になっているときも、マスコミはその居所を突き止め、電話で執拗に話を聞き出し、あの転倒のことを記事にしたがった。

池田は「またあの話か、もう話したくない」と夫人に伝え、電話も取ろうとしなくなった。そして野球の話もしなくなった。