じゃんけんのビッグデータを分析してみると
数年前に中国の王、徐、周の3人の物理学者が、多数の人間の無数のじゃんけんプレーのビッグデータを分析してみた。するとどうも人間は、じゃんけんを完全にランダムにプレーしてはおらず、最初に出す手はグーがチョキやパーよりも数%多く、また繰り返しのプレーでは前回の相手の手を負かす手を出す傾向があるらしい。特に負けたときにこれが著しかった。
これを知っていると、そのパターンの逆を行くことで、統計的に勝ちやすい出し方が見つかるだろう。つまり最初はパーを出すと勝ちやすく、次はこのパーに勝とうとチョキを出す相手にグーを出すと勝ちやすい。適度に出鱈目を混ぜながらこういう風にプレーするのである。
実は筆者はこれを実行しており、最近ではジャンケンで勝つことの方が負けることより多いのはここだけの秘密である。あなたも試してみられるといかがだろうか。しかし人間の癖をついたこのような理詰めの統計的必勝法が広がって一般化したらどうだろう。今度はそれの裏を読んで勝つプレーが出てきて、今のは必勝法ではなくなるだろう。そしてそれに勝つやり方が出て、という具合にすすむことになる。
そのうちこのような計算ずくのやり方は結局損だと皆が気づいて、しまいに人は、完全に気まぐれに、本当にランダムになるようことさら意を用いながら、じゃんけんをプレーすることになるだろう。
不確定な世界を生き抜くために
このように考えると、人間の気まぐれは不確定な状況への最適な対応として発生してきたのではないかと言う、朧げな推測さえできる。すなわち、世の定めなさこそが人間の勝手気ままな振る舞いを生み出した、とするのである。
気まぐれ、勝手気ままさは、人間の自由という概念の根幹の一つである。正しい理屈に従うのが真の自由と言うお説教はよく聞くのだが、それは詭弁だろう。理屈であれ他人の権威であれ、それに無条件に従うのは隷属である。身勝手さ気ままさは自由の一部である。福沢諭吉がliberté(リベルテ)に当てる日本語の「自由」を考えたとき、別の有力候補は「天下御免」であった。世界の不確実性は人間の自由を生んだ一つの契機であるに違いない。