強い動機を持つ人々による「一般有権者」の奪い合い
自ら判断する多数者の統治が廃れるとき、民主制のもとでの少数者独裁が立ち現れる。エネルギー産業であれ、医師会であれ、農協であれ、タバコ産業であれ、確信をもった少数派が不思議に強大な影響力を振るっているのはなぜなのか。多数決選挙の実際が多くの場合、善悪損得を冷静に判断する独立した個人の集積というよりも、強い動機をもった人々の集団による「一般有権者」の奪い合い、といった様相を呈するのはどういうことか。そのようにまわりを見渡して民主政治の実態を眺めると、善かれ悪しかれ、色々とガラム世論力学の描像に符合することが多いのではないだろうか。
最近ときどき耳にする言葉に、「熟議民主主義」というのがある。専門家を交えた少数の集まりによる議論の積み重ねを、集団の意思決定の場で活用する動きを指すようだ。これはガラム世論力学に描写された過程を、意識的に制度化する試みのようにも見える。
ガラム博士は現在、日本に共同研究者を得て、複数の対立する少数者たちの織りなす多数決世界の考察、すなわち政党政治の力学理論の構築を進めている。
気まぐれにランダムに対応したほうがいいとき
確率の概念は人間にとって非常に基本的なものである。人は希望を胸に確率の神殿を訪れて、稀に確信を、多くは傷心を抱いてそこを去る。世の中は不確定で不測の事態でいっぱいなので、人のサバイバルには、進化の途上での確率概念の獲得が不可欠だったに違いない。
確率の中心にある概念が「出鱈目」もしくは「ランダムさ randomness」である。明日は晴れるかもしれず、雨が降るかもしれず、確実な事は言えない。ランダムに起こる不確定な事象に対しては、人間のほうもランダムに、緻密に考えて対応するより、むしろ気まぐれに自由に対応した方が、良い結果を招く場合も多い。
例えば「じゃんけん」を考えてみる。ゲーム理論の告げるところによれば、じゃんけんの最良の戦略は、グー、チョキ、パーを均等に混ぜて出鱈目に出すことである。いやゲーム理論など知らずとも、誰でも経験的にそれを知っている。何かの戦略を練って出し方を決めると、そのうちパターンを読まれて負け始めるからである。