承認欲求だけ肥大化した乱入者
ところが、それに気づかずにコンテンツ制作に手を出して、ダークサイドにはまる人々がいるようだ。SNS界隈にすっかり定着した「承認欲求」という言葉があるが、まさに“有名”になることでこの承認欲求を満たそうとする人々、もっと言えば承認欲求だけが肥大化した人々は、簡単に参入できるのをいいことに、安易に視聴者の“マイナスの”情動を引き起こすほうに走ってしまう。
なぜなら、そういう乱入者は苦労して作り続ける才能も気概もないから、簡単で技術は要らないが、刺激の強い映像づくり——他人に嫌がらせをする、傍若無人に振る舞う、社会規範をわざと破る等々——に励むからだ。バイトテロの延長のような、モラルや羞恥心さえ捨てれば低コストでできるパフォーマンスである。視聴者に生じる情動は、ムカつく、気持ち悪い、嫉妬する、等々。厄介なことに、こうした“マイナスの”情動は誰の中にでもあって、しかも“引き”は強いから人は集まってしまう。こうした小児病のような行為をなぜか「すごい」「面白い」と錯覚し、それで名前を売った人を、「有名な人」というただそれだけの理由で崇拝している視聴者が多数いるようなのだ。彼らにこのただの乱入者と“マイナスの情動”のスレスレを攻めるプロの芸人とを区別するだけの目利きは、到底期待できまい。
こうして多数の視聴者を得て、「オレは有名人になった」と錯覚してしまった乱入者は、うれしさも手伝ってか承認欲求を暴走させる。「すごい有名人」に何かを仮託してくる視聴者のさらなる要求に応えようと、やることもエスカレートする。その“やること”とは、面白いアイデアを練ったり技術を磨くのではなく、上述のような低コスト・ノーモラルの蛮行をより過激化することである。その行きつく先を、原田容疑者はわかりやすく体現してくれた。
新聞・テレビ・雑誌も「何でもあり」だった
どんなメディアにもその黎明期から青年期にかけて、何でもありのカオスの時代が必ずある。新聞も「羽織ゴロ」、つまり身なりは立派なゴロツキと呼ばれ、戦後に週刊誌が発足するまでは、その肩代わりをするようなえげつない記事を掲載したし、昭和期のテレビもワイドショーや深夜のバラエティで、それはそれはどぎつい映像をオンエアーしていた。
週刊誌・写真誌もさまざまなトラブルを重ね、1986年にはビートたけしのフライデー襲撃事件も起きた。いずれも「言論・表現の自由」を声高にうたう一方で奔放な活動であれこれやらかし、痛い目にあいながらその都度社会と何とか折り合いをつけてきたわけだ。
インターネット全般、中でもユーチューブと一部ユーチューバーは、ユーチューブ本体がかけている規制にもかかわらず、日本の社会の中でそのあたりの折り合いがまだついていないのではないか。まっとうなユーチューバーが多数存在する一方で、原田容疑者の逮捕後も、亡くなった著名人の親族を名乗るニセモノの動画投稿が「不謹慎系」と称して、わが物顔で動画を発信している。
渋谷のスクランブル交差点にベッドを置いて就寝する動画をアップしたという意味不明の案件も(道路交通法違反、書類送検)。当人が作成した動画とは関係ないが、私生活での公然わいせつや傷害、空き巣、大麻の不法所持等々、ちょっと検索すれば一部ユーチューバーのモラルに欠けるトラブルはいくつも出てくる。
へずまりゅう案件が、こうした状況が変わる何かの転換点となるのかどうかは、少し時間がたたないとわからないが、その亜流が何かまた懲りずにトラブルを起こす可能性は十分ある。ユーチューバーもそのファンも、そして運営するユーチューブ側も「言論・表現の自由」は尊重しつつも、よりよい折り合いの付け方を模索すべきだろう。