「面白い」とはどういうことか?

原田容疑者のように、ネット上でおかしな方向に暴走してしまう人は、なぜ絶えないのだろうか。それは、モラルのタガが外れた動画にも、それを「面白い」と感じる視聴者が少なくないからだ。では、そもそも「面白い」とは何なのだろうか?

「面白い」は、映像や活字をなりわいとする者のいわば“至上の価値”を、たった一言で言い表している。しかし、これを詳しく説明せよと改めて言われても、意味が広すぎ、曖昧すぎてとらえ難い。ある事象を見聞きした者の心にさまざまな情動を引き起こせること……だろうか。通常であれば、その情動とは楽しかった、泣いた、笑った、勇気が湧いた、新しい、納得した……等々、社会通念上プラスと評価されるものを指している。

メディア業界——報道も含めて——に従事する者であれば、もう少し深堀りした「面白い」の定義、たとえば「おや、まあ、へえ」とか、「『犬が人に』ではなく『人が犬に』かみついたらニュース」とか、実地から学び取られた格言を、一度は耳にしたことがあろう。

動画を「視聴する」のと「つくる」のとは次元が異なる

しかし、こうした“プラスの”情動を起こすコンテンツを恒常的に生み出すには高い技術が要るし、それを身に付けるには時間と経験が要る。生まれつきその才能を身に付けている者はまれであるし、それとて一発屋で消費されて終わる公算が高い。あれこれ試行錯誤するうちに偶然、「面白い」ものが仕上がることも1度や2度ならあり得るが、それを継続できなければ仕事として成り立たない。

しかもネットは紙や電波以上に、場所によっては夥しい数の視聴者が気楽にタダ見できる環境にあり、個々のコンテンツの賞味期限はだいたい短い。そこで絶え間なく「面白い」動画を作り続けるには、いわゆる才能に加えて、修行僧のようなストイックさと探求心が求められる。ユーチューバーの頂点と目されるHIKAKINが圧倒的な支持を集めているのは、視聴者もそこを承知しているからであろう。

当たり前すぎることだが、よほどの才能と、そこに継続的に打ち込めるほどの情熱がなければ、ユーチューバーを職業になどと考えないほうがよいといえる。1人で手軽に立ち上げられ、楽しいことをやって有名になれる、稼げる……という幻想を真に受けてはいけない。一見楽しそうなそのお手軽さは、責任のない「消費する側」のお手軽さ。「つくる側」は汗水たらしてアイデアを出し、苦労して形にしても、消費されるのは一瞬である。消費と制作はまったく次元の異なる作業だという現実に、早く気づかねばならない。