明治時代に創業した吉本興業は戦時中、多くの芸人を慰問団として戦地へ派遣していた。「わらわし隊」と呼ばれた彼らは兵隊たちを喜ばせたが、同社でプロデューサーを務めた竹中功氏は「全国に吉本の名を売るきっかけになった一方、その過程で悲劇も起きてしまった」という——。

本稿は、竹中功『吉本興業史』(角川新書)の一部を再編集したものです。

春季例大祭の神事で外宮を歩く神職(2020年4月22日、東京・靖国神社)
写真=AFP/時事通信フォト
春季例大祭の神事で外宮を歩く神職(2020年4月22日、東京・靖国神社)

満州駐屯軍のもとに芸人を送り込んだ

明治創業の吉本興業の歴史をたどれば当然、戦争の記憶や傷跡は多く見つかる。はっきりと戦争に結びついているのが、戦争慰問だ。

1931年(昭和6年)、満州事変が始まったあと、満州駐屯軍の慰問に芸人を送り出したのが最初になる。

小規模な編制ながら慰問団にはコンビ「エンタツ・アチャコ」も含まれていた。朝日新聞と提携したものだったので記事になることも多く、エンタツ・アチャコの名が、全国に知れ渡るきっかけにもなった。エンタツ・アチャコは、この二年後の満州慰問にも参加している。

1937年(昭和12年)に日中戦争が始まると、翌年、やはり朝日新聞が慰問団の派遣を企画した。このときから、吉本の慰問団は「わらわし隊」を名乗るようになる。航空隊が「荒鷲」と呼ばれていたのをもじって「笑鷲隊」としたのだ。

その後も、わらわし隊は何度か編制されて、戦地へ派遣された。規模も最初より大きくなっていき、40人を超える芸人たちが、一度に戦地へ出向いたこともある。

マスメディアがこぞって戦争協力をアピールしていた時代であり、わらわし隊の動向は新聞でもよく取り上げられた。慰問から帰国したあとは、日本の劇場でも歓迎されたようだ。戦地での体験をネタにすると喜ばれたという。

しかし、1941年(昭和16年)の慰問では、悲劇が起きてしまう。