かく言う私は、この「わらわし隊」の足元にも及ばないが、1990年(平成2年)、河内家菊水丸とともに、イラク・バグダッドへ人質奪回に向かった。国会議員のアントニオ猪木の声掛けで「スポーツと平和の祭典」が開催され、そこで、河内音頭を披露した。人質解放後、40日ほど経って湾岸戦争が始まった。

大阪花月をはじめ劇場の多くを焼失

戦争によって吉本は、もちろん苦しみもした。

戦争に「統制」はつきものである。日中戦争が始まってまもなく、浅草花月劇場で行われていた『吉本ショウ』は、戦時色の強い演題になっている。「祖国十二景」、「陸戦隊六景」などがそうだった。

太平洋戦争が始まると、芸人たちも戦意高揚のプロパガンダに利用されていった。戦況が悪化していく中では、休館を余儀なくされる劇場も増えていった。出征による芸人不足という問題もあった。地方公演や地方慰問も続けていたものの、次第に難しくなっていったのだ。

そのうえ、空襲が激しくなっていったことにより、所有劇場のほとんどが焼けてしまった。吉本に限らず日本中がそうだったとはいえ、戦争によるダメージは甚大だった。大阪、東京の大規模な空襲では、裏手に本社事務所を移していた大阪花月劇場が火災に遭い、東京では、神田花月、江東花月も焼失した。

全国規模の空襲は長く続いたので、所有劇場のほとんどが焼かれてしまった。無傷だったのは京都花月劇場と、京都市新京極の富貴くらいだったのだ。「演芸王国」を築いていた吉本は、戦争によってすべてを失ってしまったともいえる。戦争とは直接関係ないが、失ったのは劇場だけではなかった。

手に入れた初代通天閣は大阪府に献納

太平洋戦争が始まる前、せいは通天閣を買収していた。せいが望んだといわれている。大阪のシンボルを手に入れることで、吉本の名をあげたい気持ちがあったのかもしれない。しかし、1943年(昭和18年)に通天閣の真下にあった映画館から火災が起こって類焼し、復旧困難になってしまう。そこで解体に踏み切り、「軍需資材」として大阪府に献納したのだ。ほかに選択肢がない時局だと考えたなら、戦争で失われたともいえなくはない。

ただし、300トンにもなったその鉄屑は軍事施設に運ばれながらも、放置されたまま錆びていった。鉄砲の弾や戦闘機などに使われることはないまま、終戦を迎えたのだ。「通天閣の鉄が、人を殺す道具にならなかったことだけが小さな喜びです」と、せいは振り返っている。

参考のために記しておけば、いまの通天閣は、1956年(昭和31年)に建てられた二代目である。場所も初代通天閣が建っていたところからはズレていて、現在の通天閣に吉本は関与していない。せいが買った初代通天閣は1912年(明治45年)の建造。パリのエッフェル塔をイメージしてつくられたもので、凱旋門の上にエッフェル塔を載せたような、けったいな建物だった。