教育の前提が「同じものを探そう」になっている

先日SNSで小学校4年生の国語の教科書が話題になりました。

教科書には「こんなところが同じだね」というタイトルのもと、「グループになって、友達との共通点を探そう」と書かれています。「筆箱の色とシャツの色が同じだね」「朝起きた時間が同じだね」などといった例が挙げられています。

人との共通点を見つけること自体は悪いことではありません。しかし色んな教えがある中で「共通点を探すこと」ばかりを優先してしまうと、「全員が同じであることは良いこと」という価値観が子供たちに植えつけられてしまいます。

「同じ教室にいる小学生なのだから、共通点は絶対にあるはず」という前提のもと教育が行われており、子供たちには「同じ空間にいる人とは同じことをしなければいけない」という期待がかけられています。

ただこの「期待」も一歩間違えると「押しつけ」かもしれません。というのも、この課題からは「自分は皆と違ってこれが好き!」という意見や発信が歓迎されるとは思えません。

中学校になると部活動が待っていますが、ここでもまた個人の意見などまるで尊重されない体育会系の世界が待っています(※)。部活に入ってしまったら最後、どんなに練習量が過酷で睡眠不足になろうとも、どんなに理不尽なイジメに遭おうとも、「やめる」という選択肢は用意されていないことが多いです。

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内申書に影響が出ることを恐れ、耐えた結果、精神的に病んでしまったり自殺に追い込まれるケースもあり、ニッポンの部活は一部とはいえ「一歩足を踏み入れたら、そう簡単には抜けられない」ダークな世界と化しています。

「意見を言う」ことに否定的なニッポンの学校

「先輩・後輩」の上下関係も厳しいことから、基本的には「自分の立場にふさわしい言動」しか認められていません。校則とは別に部活独自の「部則」を設けているところもあります。

筆者の知人女性が通っていた学校では「朝練に遅刻してきた人をその日一日皆で無視する」という部則があったのだそうです。こんなスパルタな場では自分の意見を言う余地など全くありません。

日本では生徒が「意見を言う」ことに対して学校が否定的な見方をすることが少なくありません。その根底には「まず自分のやるべきことを、全部完璧にこなしてから、意見しなさい」という教育方針があります。

しかし世界を見渡してみると、声が大きかったり、自分の意見をはっきり言ったりする人が「やるべきことを完璧にやっている」かというと、決してそうではありません。「意見が言えるために、自分がやるべきことを完璧にやろう」なんて思っているうちに、国際社会ではどんどん声だけが大きい人に追い越されてしまいます。