“タッキーさん”が私に書かせたかった本

だから、昔は胆力と識見のある財界人が、政治家を使って官僚に言うことを聞かせた。ところがいまは、劣化した官僚の言いなりになっている財界人ばかり。いまの日本で「100億円出すから、日本を救え!」と言えば、それだけで英雄だ。ところが日ごろは保守だの愛国だの救国だのと言っている財界人に限って、何をどうしていいか、わかっていない。

倉山満『トップの教養』(KADOKAWA)
倉山満『トップの教養』(KADOKAWA)

などつらつらと企画を考えてつつ、会議を3回ばかり続けたころだろうか。昨年、夭逝された瀧本哲史さんのことをふと思い出した。

タッキーさんこと瀧本さんは生前、投資家、大学教員、そしてベストセラー作家として知られていた。しかし、私にとっては「永遠の3年生」だった。

私が中央大学の弁論部・辞達学会に入った1年生のとき、タッキーさんは第一高東大弁論部の3年生だったのだ。タッキーさんと私のかかわりは『トップの教養』の「おわりに」に当たる「戦い続けた瀧本哲史さんへ」のなかで書いたとおりだが、世間に知られている瀧本さんと、私が知っているタッキーさんのギャップがあまりにすごすぎて、「そのギャップを本にできるのでは?」と考え、執筆を進めていくうちに「タッキーさんは私にこういう本を書かせたかったのかな」と確信したのである。

弁論部時代のあだ名は「麻布東大」

この原稿を書いていて、いくつか「おわりに」に書かなかった話を思い出した。

タッキーさんの弁論部時代のあだ名は、「麻布東大」だった。議論やゲームの最中、先輩たちは「これだから麻布東大は」を繰り返していた。それに対しタッキーさんは、笑ってやり返すときもあったが、本気で怒るときもあった。あだ名の由来は、言うまでもなく学歴。私立の名門・麻布学園(東京都港区)を経て、現役で東京大学法学部に入ったので、「麻布東大」だ。

後輩たちは「タッキーさんに褒められても、本気なのか、嫌味でバカにされているのかわからない」とうわさしたものだが、いま思えば、意外と正直でストレートな物言いばかりしていた。たとえば、「先輩、その話18回目の企画倒れですね」とか。

進路は、東大法学部助手に採用。25歳で助教授、30代で教授の地位が約束されている成績最優秀者のコースだ。民法の世界では、我妻栄が戦後の民法をつくったといわれるが、その後継者が内田貴である。タッキーさんは内田貴の後継者として招かれたのだった。