「良かれと思って」拡散する人たち
また「正確な情報」は概して難解であるし、しばしば直感に反している。「紙製品が豊富にあるのだから買い占めに意味はない」という「正確な情報」がもたらされたとしても、いま自分の街のドラッグストアの棚からはトイレットペーパーがなくなっているのだから、その「正確な情報」は受け入れにくい。
デマを流す人が悪意の塊であるとはかぎらない。「自分が安心できたこの説明を、周囲の人にも届けてあげなくては」といった善意でも拡散される。SNSにおいては「道徳的感情」に訴えかけるようなメッセージがより大きな拡散力を持つことを示す研究もある。デマを撃退するための「正確な情報」は、人の善意を否定することがしばしば求められる。それがときに、相手に情報を受け入れてもらうどころか、かえって態度を頑なにしてしまうことさえある。
「それはデマですよ」と指摘された人が、反省するどころか「たとえ情報が不正確だったとしても、注意喚起としての意義はあったのだ! 人の善意を踏みにじってなんの意味があるのだ! 馬鹿にするな!」などと逆上してしまう様子をSNSで目にしたことがある人は多いだろう。
「正確な情報」は、デマだけでなく「人の感情」ともしばしば対峙しなければならない。
「デマを流す人」を馬鹿にしてはいけない
新型コロナウイルスに関しては、現時点ですでにたくさんのデマ情報が流れている。そして今後もまた、「新型デマ」は大量に現れることだろう。
たとえ「大きなうねり」にはいま抗えなくとも、そのうねりは永続するわけではない。そのうねりの勢いはいつか弱まる。大きなうねりの潮目の変化が訪れたとき、速やかに「正確な情報」が勝利できる体制を整えられるか、あるいは次なるデマの台頭を促すのかは、デマが広がるさなかにおける現在の私たちの行動にかかっている。
ただし、デマを信じる人びとに正確な情報を伝えることは重要だが、その際にはあくまで「倒すべきはデマであって人ではない」ことを肝に銘じなければならない。間違ってもその人を嘲笑してはならないし、個人の感情を軽視したり侮蔑したりしてはならない。人は自分の気分を害する人の情報など受け入れようとはしないからだ。
「正確な情報」は「SNSで無知蒙昧な人を馬鹿にして優越感を得るための手段」ではなく「虚偽による社会的混乱を鎮めるための楔」である。ある人を殴りつけるために「正確な情報」を用いた場合、問題解決につながるどころか、最悪の場合は大きな政治的対立にさえ発展しうる。「正確な情報」を持つ人びとが説得するのではなく「デマに騙されているこの馬鹿どもめ」と相手を殴りつけることで、しばしば大きな対立構造が生じてしまう。全世界の各所で「反ワクチン」のムーブメントが巨大化したことは記憶に新しい。
たかがトイレットペーパー、たかが石ころと言ってしまえばそれまでだが、この現象は今後のウイルス・パニックによる社会不安の小さな予告編にすぎないかもしれない。「愚かな大衆の哀れな光景だ」と嘲笑し過小評価するのではなく、それぞれがリテラシーを持ちながら冷静になり、協調的に社会の安定性を回復していく営みが求められる局面としてとらえるべきだろう。