「これはデマだ」と即座に判断するのは難しい

冒頭で述べたとおり、トイレットペーパーやティッシュペーパーなどの紙製品は多くが国内生産されており、「中国からの輸入が途絶えれば枯渇する」といった言説は事実ではない。

しかしながら、こうした言説を即座に「デマである」と判断することは難しい。私たちはデマに踊らされている人を目の当たりにして「自分はこんなものが最初からデマだとわかっていたのに、愚かな人たちだ」と感じてしまうかもしれないが、それは「後知恵バイアス」という心理的傾向によるものだ。

あとから事実関係を知っている状態であれば、起きてしまった出来事をいかようにも評価できてしまうが、私もこうした言説を即座に否定できる自信はない。「怪しいがしかし説得力が皆無とはいえない言説だ」とひとまずは評価してしまうだろう。社会が混乱しているときにはなおさらだ。

また、デマに踊らされてトイレットペーパーを買い占めた人は、実際に買い占めが発生したことによって街からトイレットペーパーが消えた光景を目の当たりにする。そうなると「ああ、やっぱり品切れになった。自分が先に買っておいたのは正解だったのだ」という成功体験を得てしまうので、「デマに奔走した人びとのせいで枯渇したのだ」という反省を得ることは難しくなる。社会心理学でいう「予言の自己成就」である。

「デマを見抜いた人」も行列に加わる

「2月上旬にうかうかしていたせいで、マスクを買うことができなかった」という失敗経験が市民社会には広く共有されているせいで、「この情報についてあれやこれやと真偽を検討する前に(それで後悔するよりも)念のために買っておいた方がいいだろう」と、多くの人が直感的な判断を下す可能性が高くなってしまう。

実際のところ、ドラッグストアや雑貨店に殺到した人はみな、デマを完全に信じ込んだ人ではなかっただろう。むしろデマであることを見抜いていた人もいたはずだ。賢明なはずの彼らが結局行列に加わったのは、たとえデマを見抜いていたとしても、現実にトイレットペーパーが買い占められてしまっては、自分の生活が困ることにはまったく変わりがないからだ。

適切なリテラシーを持っている人がデマであることを見抜いていたとしても、しかしそのリテラシーによって買い占めの巨大なうねりを防ぐことはできないなら、やはり街からトイレットペーパーがなくなってしまって自分の生活に支障が出るのを避けるため、デマに踊らされた人が押し寄せる前に先んじて買っておかざるをえない。

皮肉なことに、「リテラシーを持っている人」は「デマに踊らされた人」と、結果的には同じ行動をとるように仕向けられていく。個人が適切な情報を判断できるだけのリテラシーを持っているかどうかは、大きなうねりが発生してしまったあとでは意味を持たないのだ。