「不快なもの」をも認めるのがリベラル社会ではないか
「リベラル」な社会とは「私が快適かつ自由にふるまえること」ではなくて、相手もまた同じように勝手気ままにふるまってくることが含意されており、その際に生じる不快感や軋轢にも我慢することが要求される。「人権」とは「私が快適かつ自由にふるまえる権利」ではなくて、相手もまた同じように自由や権利が保障されるものであり、ときには自分にとっては許しがたい者の自由や権利をも擁護しなければならないものだ。
近頃のリベラリズムの退潮には「私にとって快適なものにかぎって自由であり、また存在する権利がある(そうでないものはリベラルの範囲に当てはまらない)」とナチュラルに考えている知識人たちの驕り高ぶりが無関係ではないだろう。そのような「知的鈍感・知的傲慢」に気づかないほど、一般大衆は愚かではない。
リベラリズムの「大衆化」がもたらした現実
「リベラル」なエリートたちにとっては、自らの「リベラルな規範」に大衆が共感し従うことが理想で、それは実際のところしばらくの間はうまくいっているように見えた。しかし、リベラリズムが広く社会に浸透して「大衆化」した結果、とても自分には歓迎できないようなものまで「多様性」として包摂しなければならなくなってしまった。
「私たちが築きあげてきたリベラリズムという理念は、お前たちの(低劣な)自由や権利を行使したり擁護したりするためにあるのではない」という本音を、とうとう隠し切れなくなってきているのだ。彼らの「ネオ・パターナリズム」は、おそらく、市井の生活者たちの表現や行動にも自分たちと同じレベルの自由と権利が付与される現実に耐えられなくなってきていることに由来しているのだろう。
2017年に米国のカリフォルニア大学バークレー校で、右派メディア編集者の講演が学生の抗議デモにより中止になった事件があった。学生の一部は暴徒化し、放火をしたという(BBC「米カリフォルニア大学、右派メディア編集者の講演中止 抗議デモ受け」2017年2月2日)。性的なイラストの自由を認めなかったり、右派のメディア編集者の講演を暴力によって中止させたりするなど、リベラルな人びとが敵対者の言論の自由を認めまいとするような出来事は、同じ延長上の現象である。