「保守的な風紀委員」になったリベラリストたち

今回のキャンペーンで、日本赤十字社に対して批判や非難の声を挙げた人びとの多くが、平時は人権――とりわけ女性の人権――を擁護する「リベラル」な人びとであったことはひじょうに興味深い。マンガやアニメのイラストレーションに反対したり苦言を呈したりするのは、ひと昔前なら「保守的な風紀委員的しぐさ」に過ぎなかったものであり、自由で先進的な立場をとる人びとがそれに抵抗してきたからだ。

ところが、現在はまるで立場が逆転しているように見える。「リベラル」な人びとは、こうしたイラストレーションを「けしからん」「公共の場にふさわしくない」「差別だ、人権侵害だ」と言い募り、圧殺しようとしているのである。国や権力からの「社会の道徳や風紀を乱す」といった圧力に対して「表現の自由」を守ってきた人びとが、同じ論理を振りかざすようになるのは、じつに皮肉な光景のようにも思える。

矛盾してきた「多様性」の主張

現代社会のリベラリストたちは「多様性」「寛容」「包摂」を掲げているが、実際の女性が性的な格好をさせられているわけでもないようなイラスト一枚に対して、断固として許さないかのような態度は、それらのスローガンからは程遠いものだろう。

実際のところ、リベラリストたちが現代社会で目指しているのは「だれもが自由にふるまうこと」ではなくて、まさに、「お前たちがこの社会に存在してよいのかどうかを決められるのはこっちだぞ」という「社会の規範を決定する権利の獲得」に他ならない。

リベラリストが掲げる「多様性」「寛容」「包摂」についても、そのことを踏まえればけっして矛盾しない。すなわち――「私たちの設定する規範に従うかぎりにおいて、多様性は尊重されて社会に寛容に迎え入れられるが、規範に沿わないものや従わないものは包摂されない」と。

「社会の規範」を、多数派の良識に基づいて振りかざし、少数者の表現や行動を抑圧してきたのは、元来としては保守的な人びとのふるまいだった。実際のところ、このやり方はきわめて強力であり、人びとの良識に基づいた共感を前にしては「不道徳」「不見識」とされたものが社会で居場所を獲得することは極めて困難だった。もっとも、そのためにリベラリストたちは「人権」を擁護してこの重要性を説き、どのような人であっても自由にふるまえる権利を主張してきたのだ。