「世間の良識」を理由に嫌いなものを排除
人びとの「素直な人情」にしたがってしまえば、けっして擁護されず、存在も認められないようなものにこそ人権があったことをリベラリストたちは熟知していた。だが、規範主義的な抑圧と対峙しているうちに、リベラリストたちも無自覚のうちに規範主義的な方法論を採用するようになってしまったのかもしれない。
自分の考えや立場に相容れないものを、「社会的に望ましくない」などと「世間の良識」に置換して排除を正当化しようとするのは、「規範を決める権利」を簒奪した者たちのふるまいにほかならない。もはや現代社会のリベラリズムは「自由と人権の擁護者」ではなく、「リベラルな規範の伝道者」――いうなれば「ネオ・パターナリズム」とでも形容すべき代物となっている。
自らの行いで「反リベラル」を生み出すエリートたち
いま、世界のいたるところで「リベラル」が政治的な逆風に苦しんでいる理由を考えるとき、この現象は大きなヒントとなる。自分の都合に悪いタイプの自由を目にすると「それをやめよう」と、道徳保守的なふるまいを隠そうともしない。「自分たちこそが『リベラル』の有効範囲を決定できる」と、自身の優越性を信じてやまない。
だが当の市民側には違和感が募る。自由や人権の重要性をつね日ごろから喧伝していたはずの人が、自分の嫌いなタイプの自由にはまったくその原則を覆すような言動をみせるのだから無理もない。「リベラル」なエリートたちに「自分たちの自由や権利を擁護してもらえなかった層」は、反リベラルになる。自分たちの権利を「後回し」にされた白人たち(必ずしも白人貧困層とはかぎらない)が、「白人のアイデンティティ(自由や権利)を守る」という文脈によって、トランプの支持者に合流するのもこの流れによって説明される。
ある献血ポスターを見て「これはセクハラだ。女性の人権を侵害している」などと言ったとしても、「これも原則的にはリベラルが守れと主張する自由の範疇に含まれるのでは?」と応じられてしまう。こうなると「リベラル」なエリートたちはしばしば逆上する。そのような「反転可能性」による意趣返しを想定していないからだ。「お前は自由や人権のなんたるかもわかっていない。勉強不足だ。これは自由や人権にはあたらない。なぜなら~だからだ!」と、さまざまな理由を並べ立てる。