ブラジル代表はまるで家族のようだ

ドゥンガと初めて出会ったのは、2002年5月、ドイツだった。デュッセルドルフでボルシアドルトムント対世界選抜のチャリティマッチが行われた。世界選抜に入った廣山望にぼくは同行したのだ。

世界選抜チームとは銘打っていたが、ニュージーランド代表だったウィントン・ルーファーを除けば、監督のマリオ・ザガロのほか、ベベット、アウダイール、タファレル、ドゥンガ、ジョルジーニョ、といった94年の優勝メンバーの他、ポルトガルリーグで得点王だったジャウデル、左利きのテクニシャンであるゼ・ロベルトなどブラジル人を揃えていた。

このチャリティマッチは、ジョルジーニョが生まれ故郷であるリオ・デ・ジャネイロに開いた貧しい子どもたちのための施設を支援するためだった。ジョルジーニョは鹿島アントラーズに加入する前、ドイツのバイエルン・ミュンヘンでプレーしていた。ドイツ時代の友人たちがジョルジーニョのために企画した試合だった。

ぼくと廣山はブラジル人たちと同じホテルが手配されていた。ジョルジーニョが気を遣ってくれて、ぼくたちはブラジル人たちと夕食を共にすることになった。敬虔なクリスチャンであるジョルジーニョは、食事前に祈りを捧げた。その後、ジョルジーニョはぼくと廣山のことをみんなに紹介してくれた。そこに少し遅れて到着したのが、ドゥンガだった。

この日の食事、記者会見、そして試合会場までのバス移動のすべてにぼくは付いて回ることになった。ザガロを中心として、ジョルジーニョとドゥンガがまとめている家族のようだった。ワールドカップを優勝する集団というのはこういうものなのだとつくづく思った。

ドゥンガが貧民街に作った施設

ジョルジーニョにロマーリオが来ていないね、と話しかけると、ふっと鼻で笑った。あいつは仕方がないという風だった。

ジョルジーニョ、そしてドゥンガとはその後も付き合いが続くことになった。ドゥンガもまた出身地であるブラジル南部のポルト・アレグレに財団を設立し、慈善活動を行っていた。その1つがレスチンガという貧民街地区に作った『スポーツクラブ・シティズン』という施設だった。

2004年8月、ぼくは彼と共にこのスポーツクラブ・シティズンを訪れている。スポーツクラブという名前が付いているが、選手育成を目的としたスクールではない。

ドゥンガは施設を作った目的をこう教えてくれた。

「子供たちに社会の基本的なルールや、最低限のマナーを教えること。例えば、歯を磨くということを知らないという子供までいる。両親がきちんとした職についていないので、学校にも通えない。だから、勉強の手助けもしている。彼らに少しでも未来が開けるようにしたいと思っている」

ドゥンガによると、この地区の多くの家庭の月収は30ドルに満たない。食事は1日に一度か二度、口に入ればいいという程度だという。

「この街は冬はかなり寒い。しかし、防寒用の衣服もなく、子供たちは凍えて寒さをやりすごすしか手はない」