作品の輝きを決める「受け手との一体感」

フランスの小さな町で日本の漫画を手にして私が思ったことは、異国の地に人知れず並ぶ日本の漫画本の作者たちは、きっと世界に出ようと思って作品を書いてきたわけではないだろうということです。毎週、あるいは毎月の雑誌の締め切りに追われながら、目の前にいる編集者とともに、作品の続きを待ち望む読者に向けて、ただひたすら喜んでもらえる作品を書き続けてきただけに違いありません。目の前の読者との緊張関係の中でつむぎ出された作品が、気が付いたら世界で評価されていたということなのだと思うのです。

先ほど歌舞伎の話をしましたが、興行なら必ずあるべき観客との一体感、漫画や文学作品でいえば読者との連帯感と緊張関係こそが、核となる力を蓄え続けるのではないでしょうか。それこそが、「大衆向け」といわれるポピュラーな作品世界でも、芸術と呼ばれる分野でも、作品が輝き続けられるかどうかを決める大事なカギなのかもしれません。いま、クラシックがかつてのような輝きを失ってしまった理由は、私を含めクラシック音楽界の関係者が、そうした原点を見失った、あるいは、そうした視点を軽んじてきてしまったからなのではないかとも思っているのです。

東京ほどコンサートホールが充実した街はない

日本で音楽の分野に身を置いてここまで人生を送ってきた今、この先に光が見えないことに対して、忸怩たる想いがあります。クラシック音楽界は、1980年代初頭まで、漠然としたものではありながら、方向性のようなものをみんなが共通して感じていたのではないでしょうか。そちらに進んでいけば、向こうにすばらしい世界があるのではないかという感覚があった。それが見えなくなってきたのが、現状だと思います。

大友直人『クラシックへの挑戦状』(中央公論新社)

世界を見渡してみても、東京ほど現代的なすばらしいコンサートホールがたくさんある街は他にありません。そして、それぞれのホールが盛んな活動をしています。でも、それによってクラシック音楽が本当に市民生活に深く入り込むことになっているかというと、実際にはかなり寂しい状況だと思います。加えて、大都市集中型の構造のため、東京や大阪、名古屋のような大都市では、聴ききれないほどたくさんの演奏会が行われている一方で、地方に目を移すと、まったく状況が変わってしまいます。

それでも私個人としては、クラシック音楽が広く日本の人々に愛され、人生を豊かにする未来があるということを信じたいと思っています。

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