自分たちの価値観を押し付けてきたのではないか

もちろん、映画や文学にしても、ハリウッド作品やミステリー小説に比べれば、純粋に芸術的であるとされる作品が生み出す収益は決して多くありません。しかし、一般の人々から黙殺されているかといえばそうではありません。難解な映画が賞を取り、新聞・テレビの話題になります。文学も一時期ほどの隆盛はないかもしれませんが、それでも毎年、純文学の新人賞がお茶の間の話題になるのです。ところがここ最近、クラシック音楽は、国際コンクールでの入賞のニュース以外にはほとんど報道ベースで話題になることがなくなっています。それはなぜなのか。

いまだその答えは見つかりません。けれど、もしかしたら、クラシック音楽が、自分たちの狭い世界に閉じこもり、「外部」の評価を受け付けない、もしくは、興行であるなら当然のように意識しなければならない観客の評価よりも、自分たちが「良い」とする価値観を観客に押し付けてきたツケがまってきたのではないか……と思ったりもするのです。

日本の漫画はフランスの片田舎まで届く

たとえば歌舞伎。伝統芸能が持つ一種排他的な雰囲気をたたえつつも、東銀座の歌舞伎座に行けば、この世界を支えてきた常連客がかぶりつきに陣取り、幸四郎や海老蔵ら看板役者が見得みえを切る。拍子木がなり、掛け声がかかり、劇場は熱気に包まれる。何百年もの歴史の重みがありながら、現代の歌舞伎の世界は輝いています。それは歌舞伎が、400年もの歴史に胡座あぐらをかくことなく、いまだに観客を楽しませる芝居であり続けているからではないでしょうか。興行であれば当然持つべき原点が、歌舞伎にはしっかりあると私は思うのです。

驚かれるかもしれませんが、私は小学生のころ漫画家になりたかった時期があるのです。手塚治虫や石ノ森章太郎、松本零士、永島慎二などの描きだす世界に憧れ、漫画家になることを夢見るほど漫画の世界にのめりこんだ時期がありました。その後、指揮者になる志を立て、音楽の道に進み、そんな夢があったことなどすっかり忘れていました。

ところが、以前コンサートでフランスの片田舎を訪れたとき、書店の片隅に漫画コーナーがあり、フランス語訳された日本の漫画がぎっしりと並んでいてびっくりしました。それとともに、漫画に夢中になっていた幼いころの自分を思い出したのです。