▼大友宗麟
(1530~1587)二階崩れの変をきっかけに大友家当主となる。フランシスコ・ザビエルを通じてキリスト教を知り、後に洗礼を受けた。九州6カ国を支配していたが、耳川の戦いで島津義久に敗北。晩年は秀吉傘下の一大名となった。

モチベーションを保てなかった武将

孤独というものは、外的要因に起因するもの。それを打ち負かすため、何をすべきか独り考えることによって、己を高めることができます。例えば、信長は常に新たな敵を求め、打ち負かすためには何が必要かを考えることで、モチベーションを保っていましたが、モチベーションが保てなくなったとき、人はどうなるのでしょうか。

その最たる例が、大友宗麟です。宗麟は織田信長が母親とそうであったように、父親である大友義鑑と不仲でした。父は跡継ぎに宗麟ではなく、側室の子である塩市丸を選ぶほど冷え切った関係。これを不服とした大友家の家臣たちが起こした二階崩れの変によって、どうにか宗麟は大友家の当主となることができましたが、父親から認められることはありませんでした。

そんな宗麟は、父親が国内の内紛を収束させることしかできなかった現状に甘んじることなく、九州統一の野望を胸に積極的な領土拡大を行いました。全盛期には、九州9カ国のうち6カ国を支配し、「九州の覇王」と呼ばれるようになっていたのです。

そして、宿敵となる毛利元就が北九州に侵攻してくるとそれを阻止するべく、長期にわたる戦いを行いましたが、強敵・元就が没し、毛利家が東に意識を向けるようになると、宗麟はモチベーションを失い、転落が始まります。

宗麟の心のなかには、「幼少期は父に愛されず、元服(成人)してからは戦に明け暮れる日々で、つらかった」という気持ちがあり、伝来したばかりのキリスト教にすがろうとしたのです。キリスト教は、宗麟のつらさに対して、明確な答えを与えてくれました。

宗麟はキリスト教にのめり込んでいき、九州統一の野望はやがて、宮崎の日向にキリシタン王国を建国することへと変わっていったのです。

キリスト教を優遇するころには周囲の心は宗麟のもとを離れており、九州統一に王手をかけた耳川の戦いで島津義久にまさかの敗戦。支配していた6カ国のうち5カ国も島津家に奪われ、九州の覇王と呼ばれていた頃の面影もなく秀吉に助けを求め、秀吉傘下の一大名として人生を終えます。

自己との対話は、内なる自分を敵に置き換えて自分を叱咤激励することです。しかし、宗麟は神に救いを求めたことで、いつか神が救ってくれると自分を甘やかすようになったのでしょう。

張り詰めた弓が折れやすいように、ときには緩めるため自分を甘やかすことも大切です。しかし、自分自身を顧みるときには、孤独に徹して、厳しい評価をする必要があると肝に銘じるべきです。強弱ではない、孤独の楽しさを知る感覚が重要です。

【宗麟のここに学べ!】救いは自らのなかにある。孤独を恐れず、楽しむべし

(構成=網田和志)
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